投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. ブランド激安市場 bag53(0)
  2. ブランド激安市場 bag53(0)
  3. ブランド激安市場 bag53(0)
  4. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全4)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


大阪能楽会館

 投稿者:やさか  投稿日:2017年11月12日(日)16時21分8秒
返信・引用
  大阪能楽会館は1959年の開館から58年間、能楽公演が催されてきたそうです。
それが今年いっぱいで閉館されると聞いたので、地下鉄中崎町近くの同会館に、シテ方今村哲朗の『道成寺』を鑑賞しに行ってきました。
おそらくこの会館では最後の公演となる『道成寺』とあって、勿論場内は満員の盛況でした。
老朽化で閉館することにしたということですが、大阪では公的な能楽堂がないので、能楽鑑賞の機会が減るのではないかと残念です。
公演は、水を打ったように静かな観衆の中、能楽独特の幽玄の美を堪能することができました。
昨日はオペラグラスを持って行ったのですが、地謡方ほか端座したまま微動だにしない姿には感動します。
特筆すべきは、やはりシテ方の舞い姿でしょうか。独特の足運び、立ち居振る舞いなど。舞台上で移動するときは、全くといっていいほど頭位置に上下動はありません。
大鼓・小鼓とその掛け声、笛、太鼓の音に魅了されているうちに時間は過ぎて行きました。
 

八重垣神社について

 投稿者:やさか  投稿日:2017年10月 7日(土)12時44分34秒
返信・引用
  前項にちなんで、ヘルンさん所縁の「八雲立つ八重垣」歌について書きます。

●「八重垣神社御由緒」から部分引用
――――素盞鳴尊が出雲の斐の川上に来られた時、稲田姫を中にアシナヅチ・テナヅチの老いた両親が泣いておられる様をご覧になって、その理由をお聞きになり、悪者八岐大蛇を退治して稲田姫をお救いなされたのであります。この時素戔嗚尊は、稲田姫を斐の川上から七里去った佐草郷、佐草女の森(現境内、奥の院)の大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しし、八岐大蛇を退治しなさってから、両親の御許しを得て、
「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りされて、
「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という妻をめとった喜びの歌をうたわれて御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をおひらきになったのであります。

●「八雲立つ出雲八重垣」歌考/山路平四郎/論文/1955.4.20から部分引用
――――「出雲八重垣」は出雲大神の神威のこもつた特殊な垣の名称とみるのであるが、結婚にあたつて、その「出雲八重垣」を造ることは「妻をこめるため」の呪術で、この歌が鄭重に謡われているのは庶民と領主との関係というようなものからではなく、庶民と信仰との関係からであり、おそらく彼等に属する彼の結婚に責任を持ち、その安定を願う彼等の集団によってその「場」で謡われた彼への祝福の神事歌であつて、それが出雲の英雄神であつたスサノオの尊の結婚に附会されて語りつがれたと思うのだが、ことは遠い昔。当れりや否や。

●筆者やさか(マルヤ)私見  HP「吉野へようこそ」神々の杜より部分引用
――――「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という歌のことですが、これはスサノオノミコトが妻をめとった「喜びの歌」とされていますが実のところは、土蜘蛛と呼ばれた部族の蜂起をうたった歌だと思います。つまり上記で説明されている事とは全く違い、この一族が滅ぼされた時の歌と思われるのです。結果的に出雲の土蜘蛛の女首魁サクサヒメは殺され、今の佐久佐女の森に葬られたのでしょう。おそらく奥の院とは彼女の墳墓を示すものではないでしょうか。
「八」はヤマトの聖数、或いは数多い事。「雲」はツチグモを意味します。「妻込み」も妻の字をあてていますが、これも土蜘蛛を示すもので、イツモ族・イツモの語幹「TSUM」を読み込み、韻を踏んでいるのです。この歌は、大勢の土蜘蛛が垣根を廻らせて立て籠もり、一族の存亡を賭けて最後の戦をした時の歌と私は解釈します。結論的にいえば、佐久佐神社(八重垣神社)は天孫族が土蜘蛛の鎮魂の為に建てた神社と思えます。
但し、(出雲の国造家が祀るところの神は天つ神)と謂われていますので、出雲大社は天神です。
ちなみにスサノオは征討将軍で、出雲地方の司政官とでもいう立場でしょうか。
例えば『新約聖書』で語られているところの、古代ローマのユダヤ総督、ピラトのような人物ですね。
 

ヘルンさんへのレクイエム

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月26日(火)07時53分44秒
返信・引用
  今日9月26日は、ヘルンさんの命日です。
それで、むかし2004年に掲出した「やさか掲示板」№322と323を再掲します。


●ヘルンさんへ

へるんさん、いかがお過ごしですか。
あなたが向こう岸へ往ったのは、ちょうど百年前の9月26日だったそうですね。
向こうへ往ってからもう百年、好きだった日本に今また生まれ変わっておいでかもしれませんね。
あなたがこよなく愛した日本はあの頃と比べますと随分変わりました。
ゆったりと流れていた時間は今はなく、誰もが一日中忙しく追われています。
今、あなたの残した御本を読んで、思い出していたところですよ。
私たちも気付いていなかった日本を、あなたは澄んだ目でみつめて美しく書き残してくれました。

「…この国の魅力は実に魔法のようだ。本当に神々の在す国さながら、不思議に人を惹きつける。色彩の霊妙な美しさ、とりわけ、山の頂を空中に漂うかに見せる、あの長くたなびく霞の裾の美しさといったらない。空と地とが不思議に混ざり合っていて、現実と幻が見分け難い国…」また、こういうのもありました。「…この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。誰もが珍しそうに眺めるが、その視線に敵意はおろか、不快なものは何もない。たいていは目が、にっこりと、あるいはかすかに笑っている。…」  ---部分引用:神々の国の首都/講談社学術文庫---

あの時の自然の美しさや、人々の純粋さはなくなっていますが、おほやしろはほとんどあの時のままですよ。
そしてあなたと一緒に参拝した八重垣神社、あのやしろも大体あの通りのままです。
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を>
ほら、あなたの名前も入ってる、この歌にある八重垣神社ですよ。憶えてますか。やしろのある佐草の地は細く険しい山道で、私は杖をつき、あなたは慣れない草履をはいて、あえぎあえぎ歩いてましたね。でも今は簡単に行けるようになりましたよ。

あ、私ですか?名前を申し上げても、きっとご存知ないと思います。
いえ、私はあの時のことはよく憶えていますよ。なにしろあなたは“きづきのおほやしろ”で初めて昇殿を許された西洋人ですから。
そのおほやしろへご案内した老いた神官が私です。
私は九十にも届くかといったよわいでしたが、あなたは男ざかりの四十代でしたね。
あの時もたしか九月でしたね。あなたは松江から蒸気船に乗って来て、千家尊紀様の許しが出て、私が昇殿参拝に付添いました。思い出してくれましたか。
私は一足先に日本に生まれ変わりましたが、もしあなたも日本に生まれ変わっておいででしたら、
どこかでまた逢えるかも知れませんね。そのときはきっと分かると思いますので声をかけます。

へるんさん、また節子さんのような女性に巡り逢えるといいですね。



●ヘルンさんへ追白

へるんさん、夕べあなたの夢を見ました。
あなたはやはり日本に転生していました。まだ赤ん坊でしたけどね。
あなたがもう少し大きくなって、もの心がついたら今の日本にがっかりするかも知れません。
神社やお寺の境内で遊ぶ子供たちのにぎやかな声、遊ぶ姿が今では遠い昔の夢のようなのです。
かわいそうに今の子供たちは受験勉強におわれて大変。遊びはもっぱら家にこもって、えれき遊技機で遊ぶ程度なんですから。
あなたが好きだった軽やかにひびく下駄の音も聞こえなくなって久しくなりました。
あの時代が恋しくなつかしいですね。

ところであなたが帝大で英語の講師をしていた頃、教え子に浅野和三郎という人物がいましたね。
その浅野和三郎はのちに皇道大本に入信し、大きな影響を人々に与えました。
大本は新興宗教のゆりかごのような処でした。出口なお、王仁三郎のもとには、浅野和三郎をはじめ友清歓真、谷口雅春、岡田茂吉など、
後に教団を興した人物が集まっていましたから、そういった人たちにも浅野和三郎を通して、あなたは間接的に影響を与えたのではないかと思います。
そのように多くの人に影響をあたえ続けているへるんさんにお願いです。
先の戦争で日本は破れ、戦後において、戦前の日本はその教育をはじめ、全て間違いだったと否定され道を失ってしまいました。
なるほど経済は世界が驚くような発展をしましたが、心は荒廃の一途をたどっています。
このような時代にこそ、昔の日本がもっていた神々と共に生きる、人を思いやる優しい心が必要なのではないでしょうか。
日本に転生して大きくなりましたら、もう一度古き日本のよさを今の時代に取り戻す、そんな努力をしてください。
どうかよろしくお願いします。

へるんさん、多くの人にあらためて日本を見つめなおすよう、御本を残してくれてありがとう。
へるんさんのファンは昔も今も大勢います。
二十年以上も前のことですが、大阪北新地のくらぶに「へるん」という名のお店がありました。
くらぶ?ええ、日本語ですよ。みやび酒場とでもいいますかね。
そこのくらぶの女将さん、美形でしてね。文学好きで、日本美人の典型でした。
もちろん、大のへるんさん贔屓でしたよ。
 

本薬師寺跡、ホテイアオイ

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月16日(土)19時06分6秒
返信・引用
  橿原市城殿町、本薬師寺跡のホテイアオイを見に行きました。
以下橿原市HP「かしはら探訪ナビ」より引用
――――(ホテイアオイは)南米原産の繁殖力の高い花で、別名はウォーターヒヤシンスといいます。
水草の1種で水面に浮かび紫色の花を咲かせます。朝につぼみが太陽の日照に合わせて開花し、
夜になると萎んで翌日の朝に新しい蕾が花開きます。
一度開花した花は毎日入れ替わるので花は大変色鮮やかです。(中略)
本薬師寺跡周囲にある1.4ヘクタールの水田には、毎年7月初旬に約14,000株が植えつけられ、
最盛期には約400,000株の美しい紫色の花が水田一面に広がります。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
この本薬師寺跡には「史跡 元薬師寺阯」と、文字が刻まれた石碑が建てられている。
遠景に見えているのは、大和三山の一、畝傍山(うねびやま)
※クリック拡大してご覧ください。
 

波宝神社・岳祭り

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月10日(日)22時06分3秒
返信・引用
  本日9月10日、西吉野銀峯山・波宝神社の秋祭りに行ってきました。
快晴に恵まれた日曜日、山上は熱気に包まれました。
数十年ぶりに復活した波宝神社名物「荒神輿」が復活したからです。
今までは担ぎ手が揃わないと言う事で、神輿蔵に休んでいた二台の神輿が、本日は境内に登場したのです。
伝統行事の復活に向けて地区をあげての取り組みに、市も全面的な協力をしたのでしょう。
波宝神社の宮司さん、氏子総代さんをはじめ地区の氏子の皆さんのご努力で、見事伝統の行事が復活しました。
市で担ぎ手を公募すると、何と60人も応募したとか。
お揃いの波濤模様の法被姿も凛々しく、若者たちの勇壮な声が境内に響き渡りました。

●参照頁「波宝神社」http://www.yasaka.org/yosino/hahono.html
    「波宝神社・秋祭り」http://www.yasaka.org/yosino/hahou_001.htm
●写 真[上]出発前の結団式
   [中]さあ、神輿の出発だ!
   [下] 急坂の参道を降りて御旅所に向かう
 

二十億光年の孤独

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 9月 7日(木)01時20分9秒
返信・引用
  『谷岡俊太郎詩集』を久しぶりに読みました。
これは昭和43年(1968)5月に河出書房から発売された詩集なのでもう50年ほどにもなります。
まだ少年とも言えるほど若かった頃の私が買ったものでした。

少年はこの詩集が大変好きになり、よく持ち歩きました。
成人して結婚し、娘を二人もうけた後も、手元においてよくこの詩集をよみました。
何年も時を経て、この詩集は著者にめぐり逢いました。
57歳になった持ち主の男が、サインを著者に求めに行ったからです。
大切にしていた本だったけれども、もうかなり傷んでいました。
著者は、本をいたわるように撫でたあと、丁寧に署名してくれました。
それから十数年過ぎても、男は手元から離しませんでした。
もう、ぼろぼろになってしまった本だけれど、背を糊で固め、しまいには透明テープで繋ぎもしました。そして、しばらく本棚に並べていたのでした。

久しぶりに読んだ詩集で、むかしの感動がよみがえりました。
特に、「二十億光年の孤独」と区分された一連の詩集です。
この詩の一部を以下にかかげます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ネロ
――愛された小さな犬に

ネロ
もうじき又夏がやつてくる
お前の舌
おまえの眼
お前の昼寝姿が
今はつきりと僕の前によみがえる

お前はたつた二回程夏を知つただけだつた
僕はもう十八回の夏を知つている
そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
メゾンラフイツトの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグ橋の夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいつたいもう何回位の夏を知つているのだろうと

ネロ
もうじき又夏がやつてくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
(以下略)

●昔の感動が蘇ってきたので、ホームページに「谷川俊太郎と石原慎太郎」と題した頁をつくりました。
http://www.yasaka.org/KOBO/tanigawa.html
 

天辻峠

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 8月26日(土)17時42分35秒
返信・引用
  五條市大塔町天辻峠の道の駅に行ってきました。

天辻峠は標高790メートル。その昔は「天の川辻」と言ったそうです。
丹生川と熊野川の分水嶺で、西熊野街道の最難所だったと伝わります。
この峠は、正に天の十字路ともいうべき要所だったようです。
主道の南北に通る道筋は、大日川村(現在の西吉野町)から、この天辻に上り、
南方の坂本村(現、大塔町阪本)まで一気に下ります。
一方、東西の道は、西へ行けば富貴村(現、和歌山県高野町)で、東へ行けば天川村へと通じます。
いずれも古代の高速道路とも言うべき尾根道筋の交差点でした。
幕末の天誅組の変では、一時天誅組の本陣が置かれたこともあります。
当時は大いに栄えた物流の中継地で、宿場の様相を呈し大商人が支配していたらしい。
現在は国道168号線が通り、「道の駅・吉野路大塔」がああります。

写真[上]は、道の駅案内図(以下いずれもクリック拡大してご覧ください)
写真[中]は、天辻郷土館付近(道の駅2階より撮影)
写真[下]は、郷土館庭園(郷土館座敷内より撮影)
●往古の「天の川辻」は、現在の道の駅より徒歩で30分ほど上に登った所にあったようです。


 

桃花里(つきのさと)

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 7月30日(日)20時16分4秒
返信・引用
  吉野郡下市町秋津は、古くは桃花里(つきのさと)と呼ばれていたようです。
平安時代初期に、僧景戒によって編まれたと伝わる『霊異記(日本国現報善悪霊異記)』にも
「桃花里秋野河」と記されて出てきます。
吉野・下市は、吉野川支流の秋野川に沿って栄えた市邑で、
平安時代初期には世間に広く知られていたようです。
日本最初の手形「下市札」が発行されたのもこの吉野下市でした。

●写真は上から―― 町内の小祠「天照皇大神宮」と「楠稲荷大明神」そして、
歌舞伎・義経千本桜の舞台に登場する老舗料亭「つるべすし弥助」
 

新歌舞伎座

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 7月 2日(日)11時59分18秒
返信・引用
  昨日7月1日、上本町にある新歌舞伎座に行きました。
6月26日から公演している「五木ひろし・坂本冬美の公演」です。
出し物は、夫婦善哉と歌謡ショーでした。
歌謡ショーと言えば、もう50年以上も昔、労音でフェスティバル・ホールのフランク永井ショーや、大劇での橋幸夫ショーを見て以来のような気がします。
フランク永井の素晴らしいバリトンの歌声は、今も彷彿として記憶に蘇ります。今になって残念に思うのは、あの「美空ひばり」や「青江三奈」の歌謡ショーを見たことがなかった事です。もっとも当時はそれほど彼女たちの歌声が魅力的だとは思わなかったからでした。
私に感受性が無くその良さが分からなかったからです。
残念にも彼女たちがあの世に旅立った後で、彼女らの歌声の魅力に取り憑かれたのでした。
後からはCDを買ったりして、何度も何度も繰りかえして聞くほど惹かれ、現役の間に実演見ておけば良かったと悔やんだものでした。
そのような後悔があったので、素晴らしい歌声の五木ひろしや坂本冬美の実演を、ぜひとも今の内に見ておきたいと思ったからです。

公演は、期待通りの素晴らしいものでした。
さすがに五木、坂本は一流の歌手だと思います。
そして、二人と共とても色気がありました。

写真は大阪上本町YUFURA 6~8F 新歌舞伎座
 

紀氏神社

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 6月13日(火)11時38分36秒
返信・引用
  平群坐紀氏神社に参詣しました。●http://www.yasaka.org/kamigami/hegurimas.html
10年ほど前にも参拝しようと訪れたのですが、鎮座地がどうしても分からなかったのです。
今回も、ナビで神社名検索しても出て来ないし、地名で検索してもよく分からなかったのですが、
何人かの地元と思える人に尋ねて、やっと見つけました。
(上)の写真は、境内地から西北方向に見える生駒山/112㎜望遠撮影
(中)の写真は、境内に隣接する上庄ホタルの里公園に立つ「平群ホタルッチの会」幟
(下)の写真は、境内生垣外側に植えられているアジサイ
 

6月の吉野山

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 6月11日(日)21時50分43秒
返信・引用
  花見のシーズンが2か月も過ぎた吉野山に行きました。

写真(上)は、休日だというのに閑散とした近鉄吉野駅
写真(中)は、塔尾山椿花院(とうのうざんちんかいん)如意輪寺、後醍醐天皇御霊殿
写真(下)は、如意輪寺の宝物で重文の「金剛蔵王権現立像」現物は運慶の高弟源慶作の重文。
撮影が禁止されているのでこの写真は境内に展示中の看板を写したものである
 

金峰神社

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 5月 9日(火)18時43分16秒
返信・引用
  金峰神社と言っても吉野の名神大社「金峯神社」ではなく、建水分神社境内の末社のことです。

15年前に参詣したときには気付きませんでした。
建水分神社:http://www.yasaka.org/kamigami/futami_002.htm
それが、この連休に参拝した時に見つけました。
以前はなかったように思うのですがどうなのでしょう。
でも同じ赤坂村、高塚山の山頂に「金峰神社」があったのです。
おごそかで、とても雰囲気の良い神社でした。
祭神はマガリノオヒネという神様のようです。
よろしければ下記の頁をご覧ください。
●高塚山・金峰神社:
  http://www.yasaka.org/kamigami/kimp.html
 

背割提のソメイヨシノ③

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月13日(木)16時20分35秒
返信・引用
  京都府八幡市、背割提のソメイヨシノ・ザクラの続きです。
どうぞクリック拡大して、ネット花見をご堪能ください。

当日は、多くのアジア系の観光客の人たちを見かけました。
中には新婚さんと思しき人たちもいます。
日本のサクラを背景にウエディング衣装で記念撮影をしているカップルも見ました。
 

背割提のソメイヨシノ②

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月13日(木)16時03分36秒
返信・引用
  昨日見に行った背割提サクラの続きです。
ここのサクラは「見事」とは聞いていたのですが、まだ花見に行ったことはなかったのです。

「背割提」というのは、宇治川と木津川の合流部に築かれた堤防です。
現在の堤防は、1917年の大洪水の後に改修されたものだそうで、1970年までは松が植えられていたそうです。
ところが虫害のため枯れ始めたので、その後はその殆んどを桜(ソメイヨシノ)に植え替えられたのだそうです。
現在その時植えられたソメイヨシノは大きく立派に育ち、今は大木に育っています。
見た感じは百年も経てるかのような老木にも見えますが、植えられた経過からみると、樹齢はまだ50年位だと考えられるのですが、どうなのでしょう。
(ソメイヨシノはあまりにも激しく咲き乱れるので寿命が短いのかも知れませんね)
 

背割提のソメイヨシノ①

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月13日(木)15時26分34秒
返信・引用
  4月12日、京都府八幡市の背割提に行ってきました。
噂通りここのサクラは圧巻でした。もう見事という他ありません。
私が今までに見たサクラの中では、その迫力という点で第一と思われました。
写真では、その迫力は中々お伝え出来かねると思います。
それで、せめて出来るるだけ多くのカット数を掲出したいと思います。
 

南河内の枝垂桜

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月 5日(水)15時47分23秒
返信・引用
  大阪南部、河南町の式内壹須何神社に参拝しました。
写真は、その拝殿前の枝垂桜です。
 

狭山池のサクラ満開

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月 4日(火)21時15分6秒
返信・引用
  大阪狭山市の狭山池公園へ花見に行ってきました。
狭山池の周遊路に植樹されているサクラは、コシノヒガンとソメイヨシノだそうです。
コシノヒガンの方が、開花は少し早いようで、本日ほとんど満開といったところでした。
写真は、上:その花見客の様子、中:狭山池博物館、下:さやりん

◎さやりんとは、大阪狭山市のマスコットキャラクター。
やさかは、女の子と思っていたのですが、性別は不明とのこと。
お父さんは、狭山池の龍神さまで、
お母さんは、狭山池の桜の妖精だそうです。
 

南大阪のサクラ開花

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 4月 3日(月)18時43分41秒
返信・引用
  大阪南部のソメイヨシノが開花を始めました。
写真は、河内長野市の住宅地の公園で本日見つけたソメイヨシノですが、
数日で満開になりそうです。
 

祈りとは……

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 3月23日(木)21時05分59秒
返信・引用
  写真は、ミレーの晩鐘です
私は昔、この絵を見たとき次の歌を書き付けました
――――――――――――――――――――――――
祈りとは
今日一日を感謝し
今日の一日を反省して
明日への希望を誓うことです
―――――――――――――――――――――
祈りとは:ホームページ「やさか工房」
http://www.yasaka.org/KOBO/inori_001.htm


その時から、私は神仏に願い事をしないことにしています。
つまり、願いは自分のこの先の目標として、自分自身に誓うことにしたのです。
 

3月の神社史研究会・例会

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 3月18日(土)20時20分43秒
返信・引用
  第二十五回・神社史研究会は、3月17日(金)午前9時、熱田神宮会館で白山皇學館大学教授の「熱田神宮とその神事}と題する記念講演から始まりました。
10時からは同教授のお計らいで、熱田神宮の祈念祭に参列させていただくことが叶いました。
当日は天候良く朝の寒気が身に凍みましたが、それがまた神事に相応しく思われて、厳かな神事を目の当りに出来た喜びの中、あらためて心願の成就を誓いました。

写真は、祈念祭斎行のち退出する神職の方々。三枚目の写真は別宮・八剣宮
 

越前・加賀

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 2月27日(月)22時43分43秒
返信・引用
  25~26日、越前・加賀に行きました。

写真は雪の永平寺境内です。
雪国は屋根瓦の傷みが早いそうです。
瓦修復のため、ささやかな協力をさせていただきました。
 

すみよし反橋能

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 2月 7日(火)08時24分2秒
返信・引用
  昨日6日の「住吉大社セミナー」は、「すみよし反橋能」との共催でした。
写真はその会場、吉祥殿での風景です。
曲目は「翁」と「高砂」でしたが、公演の妨げになってはいけない思い、撮影は控えました。


●住吉みくじ 第十六番 大吉

 言はずとも思ひは空に知りぬらむ あまくだります住吉の神
                        (藤原実守)

 

プラダを着た悪魔

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 2月 6日(月)09時51分18秒
返信・引用
  「プラダを着た悪魔」も何度も見たくなる映画です。
ビデオに撮っていて昨夜も見ました。
小説を映画化したようですが、ストーリーがとても良く、配役もそれぞれ個性的でとても魅力があります。
作中の人物アンドレア、ミランダ、エミリーが特に良く演じられています。
ミランダ役のメリル・ストリーブ、アンドレア役のアン・ハサウエイはオスカー女優なので演技が一流なのは当然ですが、
脇役陣もそれぞれが役どころを見事にこなしていて、とても魅力的でした。
画面も、ため息のでそうなほど美しいシーンが次々と展開していきます。
 

紅の豚

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 2月 3日(金)22時16分27秒
返信・引用
  「ポルコ大好きッ」とフィオやジーナも言った豚さんは、
本当に恰好いい!男の中の男ですネ。

紅の豚、また見てしまいました。
何度も見たくなるので、今はビデオに録画してあります。
宮崎駿のダンディズム…やっぱりこの人も天才でしょうね。
 

カメラ大好き

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 1月29日(日)14時52分32秒
返信・引用
  ホームページをする?にあたって、最もよく使うカメラはデジカメです。
何種類かのデジカメを使いましたが、今私が最も気に入って使っているのは下の写真の「FJIFILM X10」です。
このデジカメは、一眼レフのようにファインダーが明るくて見やすく、機械式カメラのような質感で手になじみます。申し分のない性能で解像力も秀逸です。オートを解除してマニュアルで思いのままの撮影も可能です。(この撮影は、Nikon COOLPIX510でしました)

●「カメラ大好き」のページを新掲出しましので、よろしければご覧ください。
http://www.yasaka.org/pastime/camerafan.html


 

正月の風物詩

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 1月 4日(水)12時34分10秒
返信・引用
  写真は、狭山池の周遊道路から揚げられていた「連凧」です。
まるで「上り竜」のようにぐんぐん昇って行くのですが、あげている中年のオジサンに聞くと
「120連持って来てるけど、風が良くないので今日は60連位しか揚げられへんやろ」との事でした。
日本最古のため池とされる「狭山池」ですが、周辺は美しく整備され「狭山池博物館」もあり、
一周2850mの周遊路は、近隣の人々にジョギングや散歩のコースとして親しまれています。
寒さ益々厳しい今日この頃ですが、見事な桜が咲き競う春が待ち望まれます。
(撮影はケータイのカメラ)
 

謹賀新年

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 1月 3日(火)14時03分12秒
返信・引用
  毎年正月三箇日には、
地元の鎮守さん、故郷の産土さん、大阪の住吉っさんに初詣にお参りしています。
でも今年は都合で、地元の鎮守さんだけにしました。
その住吉神社のおみくじです。

「御神籤 第九番/小吉」
苦しかる日の過ぎゆきて 大神の恵みの光 今ぞ仰がむ

裏面の「神の教」には、
影が鏡か、かがみがかげか、拝む心が、神ごころ
……と記されていました。
 

ごあいさつ

 投稿者:やさか  投稿日:2016年12月 8日(木)00時07分22秒
返信・引用
  HP“吉野へようこそ”を開設して丸16年が過ぎました。
「やさか掲示板」も本日12月8日で15周年を迎えました。
当時のことを思い浮かべて第一回目の書き込みを再掲出させていただきます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[1] どうぞよろしくお願いします  投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/08(Sat) 22:54
----------------------------------------------------------------------
管理人のマルヤです。
昨年11月に「吉野へようこそ」HPを開設して以来、丸一年が過ぎました。
この辺で掲示板を出したいと思います。よろしくお願いします。
さてこの「やさか掲示板」はWeb上のヴァーチャル・キングダム”ヤマト”に立てられた掲示板です。
入出国は自由ですので、ワイワイ、がやがや、やってもらえればうれしいです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

●ネットの世界は何も知らず、手探り状態ではじめたホームページでしたが、お蔭様でもう16年も続けさせていただけました。
これは偏にHPや掲示板に訪れてくださった方々のご意見や、寄せていただいた有り難いアドバイスのお蔭です。改めてお礼申し上げたいと思います。
ありがとうございました。
これからもできるだけ長く続けて行きたいと考えています。
どうかよろしくお願いいたします。
――――初めは管理人名をマルヤとしていましたが、現在は「やさか」と改めています――――
 

皇女和宮

 投稿者:やさか  投稿日:2016年12月 5日(月)15時23分42秒
返信・引用
  国民学校国語教科書『初等科國語八』に、次の内容を見つけました。(以下教科書まま。※印は筆者)
十四 靜寛院宮※
鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の一戰に、德川慶喜(よしのぶ)は、はしなくも朝敵といふ汚名をかうむつた。
 すでに大政を奉還したかれに、逆心などあるべきではないが、しかし何事も時勢であつた。朝臣のうちには、あくまで德川を討たなければ、武家政治を土臺からくつがへして、新日本を打ち立てることができないとする硬論がある。
(中略)
 慶喜は、事のすこぶる重大なのを知つて、大阪から海路江戸へ歸つた。
 かれは、靜寛院宮に事の次第を申しあげて、切に天朝へおわびのお取り成しを願ひ、身は寛永寺の一院に閉ぢこもつて、ひたすらに謹愼の意を表した。
(中略)
 宮の御文(嘆願書)は、實に言々血涙の御文章であつた。
「何とぞ私への御憐愍(ごれんびん)と思し召され、汚名をすすぎ、家名相立ち
 候やう、私身命に代へ願ひあげまゐらせ候。是非是非官軍さし向けられ、
 御取りつぶしに相成り候はば、私事も、當家滅亡を見つつ長らへ居り候も
 殘念に候まま、きつと覺悟致し候所存に候。私一命は惜しみ申さず候へど
 も、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致
 し居り候。心中御憐察あらせられ、願ひの通り、家名のところ御憐愍あら
 せられ候はば、私は申すまでもなく、一門家僕(かぼく)の者ども、深く朝
 恩を仰ぎ候事と存じまゐらせ候。」
 德川を討たねば止まぬの硬論を持する朝臣たちも、この御文を拜見してひとしく泣いた。
 德川に對する朝議は、この時から一變した。それは全く義を立て、理を盡くし、情を述べて殘るところあらせられぬ宮の御文の力であつた。
(後略)
 朝敵の汚名はすすがれ、德川の家名は斷絶を免れた。舊臣たちは、ほつと安堵(あんど)の胸をなでおろした。
 江戸城は、官軍方の西郷隆盛(さいがうたかもり)、德川方の勝安芳(かつやすよし)のわづか二回の會見で、しかも談笑のちに開城の約が成立した。
 江戸市民は、兵火を免れた。さうして、幸ひはただそれだけではなかつた。當時、歐米(おうべい)の強國は、ひそかにわが國をうかがつてゐたのである。現にフランスは德川方を應援し、イギリスは、薩長(さつちやう)を通じて官軍に好意を見せようとしてゐた。もし、日本が官軍と朝敵とに分れて、長く戰ふやうにでもなつたら、そのすきに乘じて、かれらは何をしたかもわからない。思へば、まことに危いことであつた。

※靜寛院宮(せいかんいんのみや):孝明天皇の御妹で将軍家茂に降嫁した皇女和宮(かずのみや)内親王のこと
 

幕末の有栖川宮家

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月30日(水)00時15分4秒
返信・引用
  天保四年(1833)、波宝神社が正式に有栖川宮家の祈願所なって以来、その関係は7代韶仁親王に始まり、
8代幟仁親王、9代熾仁親王と、明治2年の行政官布告による祈願所廃止まで続けられました。
その間に日本は幕末の重大な変革期を迎えていたのです。

鎖国と攘夷の実行論者だった孝明天皇は、幕府との関係が険悪になってきたこともあって、
その修復の意味を含む公武合体の案を受け入れて、妹の和宮を徳川家に降嫁させることに同意せざるを得なかったようです。
でも皇女和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約相手がいました。
それでも孝明天皇は苦渋の決断をして、国民のため、国内平和のため、皇女和宮を将軍家茂の正室として降嫁させたのでした。
ところが……

1866年6月、将軍家茂20歳で急逝。
1866年12月、孝明天皇35歳で急逝。
1867年7月、睦仁親王(孝明天皇皇子/本来の明治天皇)急逝。
1867年10月、大政奉還……と、日本は時代の大きな荒波に飲み込まれて行きます。

こうした事件の黒幕には、伊藤博文、岩倉具視の暗躍があったと思われます。
また、西欧列強の狡猾な植民地化政策の背景が大きな影を落としていたのでしょう。
 

/12