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御霊神社/アーカイブ

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 7月 3日(金)20時49分10秒
返信・引用
  www.yasaka.org 内のサイト「神々の杜」「エイプとあそぼ」の頁より御霊神社を再掲出



http://www.yasaka.org/kamigami/goryo.html 御霊神社本宮、宇智陵、他戸親王墓

http://www.yasaka.org/kamigami/futamigoryo.html  二見御霊神社

http://www.yasaka.org/kamigami/tanbaragoryo.html 丹原御霊神社

http://www.yasaka.org/kamigami/minamiada.html  南阿田、島野御霊神社

http://www.yasaka.org/kamigami/noharagoryo.html 野原御霊神社

http://www.yasaka.org/kamigami/shinreigu.html  西阿田御霊神社

http://www.yasaka.org/pastime/otonasigawa.htm  小島町、近内町御霊神社

http://www.yasaka.org/pastime/otisoma.htm  黒駒御霊神社(式内・落杣神社)

http://www.yasaka.org/pastime/ikazuchi.htm 御山町御霊神社(式内・火雷神社)
 

御霊神社ツアー下見

 投稿者:マルヤ  投稿日:2020年 6月28日(日)10時48分9秒
返信・引用
  昨日6月27日の土曜日は、神社史研究会の落合副会長以下の会員8名が五條市の御霊神社本宮に集合して
宮司様のご案内で、五條市内の御霊神社、数社に参拝することができました。
藤井利夫宮司様、大変お世話になり、ありがとうございました。

以下の写真は、目にも鮮やかに境内で咲く青色の紫陽花と、極彩色塗装も真新しい社殿の佇まい
 

未来の記憶

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 6月 8日(月)19時21分44秒
返信・引用
  ♪桜やうれし 奈良に桜の咲く春に 神の来る日
その日なれば 奈良に集え 奈良に集いて
語りあかさん はるばる 桜の春やよし♪
  タンツツン・・・ツン・・・タンツンツン

大和国高天原に神が御里来る
もののふ達のうたげの場には
左近の桜、右近の橘が相応しい
もちろん左近の桜はシロヤマザクラ
右近の橘はヤマトタチバナ

のちのちの覚えのために 書き残して置こう
 

ニーチェの言葉

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月18日(月)23時25分5秒
返信・引用
  『超訳 ニーチェの言葉』エッセンシャル版
この本には、あのニーチェの珠玉の名言がつまっています。
そのエッセンシャル版、一項目より抜粋しました。


●自分の生きた意見を持つ

生きた魚を手にするためには、自分で出掛けていきうまく魚を釣り上げなければならない。
これと同じように、自分の意見を持つためには、みずから動いて自分の考えを掘り下げ、言葉にしなければならない。
そしてそれは、魚の化石を買う連中よりもましなことだ。
自分の意見を持つ事を面倒がる連中は、金を出してケースに入った化石を買う。
この場合の化石とは、他人の昔の意見のことだ。
そして彼らは、買った意見を自分の信念としてしまう。
そんな彼らの意見はいきいきとしておらず、いつまでたっても変わらない。
けれども、この世にはそういう人間が数多くいるのだ。

以上 『漂泊者とその影』フリードリヒ・ニーチェ著/白取春彦訳より
 

やさか掲示板より再掲

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月17日(日)10時09分38秒
返信・引用
  現代医療のパラドックス
投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 7日(金)の記事より再掲します。

医療のパラドクスは数多くありますが、まず、その第一番は、
医学はめざましく進歩していると言われていますが、一方でますます病気が増えていることです。
「病気」とは、誰かが「病気だ」と言った時から始まるものだと言えます。
言葉を変えれば、ある状態を見つけて病名をつけて、病気だと言い出すことで、
どんどん病気が増えていくものだと思われます。
たとえば、結婚状態の男女が二年以上経っても子供ができないと「不妊症」とされます。
また、血糖値が高いとして「糖尿病」という病名をつけます。
医学が進歩(見せかけだけの)すると、早期発見だとして発症していないものでも病気にされてしまう。
そして、医療という治療行為で、病気が起こったり、ひどくなったりするのです。
必要のない手術をしたり、無用の投薬や放射線などの副作用で身体が傷つけられています。
医療が不健康を促進していることがどれだけ多いことでしょう。

受けなくてよい検査や無用の治療行為で、どれだけ健康を損ね、医療費を無駄遣いしていることか。
また病院では高額な医療設備機器の償却のため、設備をできるだけ稼動させようとしています。
これでは早晩、健康保険のシステムが崩壊することは目に見えています。
これは、病院経営者の意向に沿える医師が出世できる恐ろしい背景があるからでしょう。

考えてみてください!
【病院で生まれ、病院で死んでいく】
よく考えると、こんな殺伐とした風景は恐ろしいかぎりです。
病気で無いのに病院に入って子供を生み、老いては病名を付けられ病院に入れられて寂しく死んで逝く。
どこか間違っていませんか。
これらすべて、西欧医学がその方向を誤ったせいだと思われるのです。
(やさか掲示板・過去ログより、抜粋)

 

昭和・平成の霊能者(続12)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月16日(土)20時24分19秒
返信・引用
  山内光雲(本名 山内昌1929~2002)
山内光雲は健康医療機器メーカーの日本ゼリア(現、ジェクス)の創業者・社長であった。
会社経営の傍ら、数々の発明を行い、実用新案特許を200以上も取得。中小企業の経営相談や人生相談、また健康維持や病気の治療方法についても独自の理論を展開して人心救済を実践した。
薬剤師、会社社長、ひかりの会初代会長で以下の著書がある。
『大和物語』第一巻、第二巻 山内光雲著/たま出版
『見えない世界が病気をつくる』山内昌著/たま出版
『病院から逃げろ』関ゆずる編著/たま出版 山内光雲の新医論解説書

●山内光雲の医療論は、一言で言えば「症を出し切る」医療法である。
薬は無用、手術不要。例えば下痢は自然に止まるまで出し切る。これは体内に入った毒物を排泄する自浄作用であるとする。
咳も痰も一つの排泄作用なので出るだけ出し切るのが良い。
発熱も正常な身体の仕組みの自衛作用。
傷口が化膿した場合ですら、それも自浄作用であるとする。現代医学が、むしろ病気をつくり出しているとした理論を展開している。
「一人ひとりの過去の長い生命の記録(輪廻転生)は、心の底に圧縮して存在しているのです」と山内光雲は言っている。
 

昭和・平成の霊能者(続11)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月16日(土)13時16分57秒
返信・引用
  山内光雲のこと

何度かその高槻での集まりに行った。自分が経営する家具販売会社の事務所を、光雲師が主催する集会に提供しているこの社長は、この会の世話役であり、山辺光雲のファンで「ひかりの会」の番頭格でもあった。
ある日の集まりの後、巖は光雲師と番頭だけになったとき、いきなり切り出した。
「先生、私を弟子にしてもらえませんか?」
巖はじっと師を見つめて返事を待った。
「そうなれば給料は出せませんが、それでやって行けますか?」
先生に代わって番頭が答えた。
「はい。一年ぐらいだったらやって行けます」
「少し短いなあ」先生に代わり、また番頭が答えた。
師は黙ったままだった。
巖はじっと師の表情を見つめていたが、表情は動かなかった。巖は弟子としての入門を拒絶されたと判断した。
(よし、一から自分一人で勉強をやり直そう)巖は決心した。
その後も機会を見つけては、よく光雲師の元に顔を出した。

事情で集会場所が変ってからも、その変更先までよく行った。一緒に食事をしたり、スナックなどにも飲みに行った。
師は興に乗ると、よく不思議な歌を謡った。何処からともなく音楽が聞こえ、自然と口を開き、声帯から声が出るのだという。
巖は勝手に山内光雲を崇め師事した。

そのうち師は、霊能が開発されるという古代ヤマトの歌を手ずから指導してくれた。
それから数年が過ぎた。
「君はすでにその力を得た。できるだけ早く活動をはじめなさい」
ある日師はそのように言った。
「すべてを任せます。まず奈良県内に集会所をつくりなさい」
師は、一日も早く活動を始めるように言った。
・・・ヤマトの歴史が狂っている。また、この国の医学、経済学、哲学など、あらゆる西欧由来の学問も間違っているのでこれを根本から改めてください。真理を追求するのが学問であったのに、現代の学問は違っている。学閥ができ、権威や金に左右されて、ウソが本当としてまかり通る世の中になってしまった。君はまず日本の歴史から改める作業をはじめてほしい。それがあなたの今生に科せられた使命だというようなことだった。
光雲師は、「あなたにこのことを伝えるのが私の役目なのだよ」とも言った。

翌年、師は「ひかりの神」の召命により天に召された。
巖は先ず五十日と百日の霊祭を済ませた。
「君にはその力が既にある。奈良県内なら何処でも良い。君がここだと思うところに、まず集会所をつくりなさい。その時になれば協力者が現れ、また必要なお金も自然と集まるよ」
師は生前そのように言っていたが巖はまったく自信がなかった。まだ霊感も霊能力もあるとは思っていなかったからである。
それに先立つ資金がまったく無かった。それで井角はまず修行をはじめようと思った。修行と言っても巌窟に籠もり座禅をしたのではなかった。断食をしたり、寒中に滝に打たれるなどの荒行をしたのでもなかった。ただ山中に入り真理を見つめようとしたのだった。
主な修行場は吉野三山だった。西吉野にあるこの三体の山は、山頂にそれぞれ由緒ある神社が鎮座している。高野山にも入った。また丹波の高熊山や伊勢の倉田山でも修行した。昼は山林に入り、夜は主として神道を書物から学んだのである。命題は、物事の真理を追究しようとしたのだ。
「真理」とは何か?
真理とは、実在するものの肯定であり、実在しないものの否定である。つまり言葉での表現と実在の一致と言えると思った。
では「実在」とは何か?
実在とは、形而上学的な恒常不変の実体・本体だと突き詰めて考えていった。
 

昭和・平成の霊能者(続10)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月14日(木)08時28分56秒
返信・引用
  山内光雲は長い闘病生活の内、苦し紛れに神様を呼び、自分の肉体を神様に貸してお手伝いをする約束をしてしまった。
その時から神様の声が随時聞こえて交信できるようになった。
神様は、この世こと、あの世のこと、命の仕組みなど様々なことを教えてくれた。
光雲には分からないことがないようになった。
疑問があればすぐ神様を呼んで聞くのである。(すると神様は光雲の声帯を使って回答する)

闘病中、様々に浮かんでくるアイデアをベッドから電話で会社に指図したりした。また会社の幹部も訪ねて来ては光雲に相談した。噂を聞いて病院の婦長や看護婦も相談に寄って来た。
退院してからも噂がうわさを呼び多くの人々が光雲の元をおとずれた。
光雲は神様に教わった様々なことを説き始めた。次のようにである。

「人には前世があって、前世からの因縁で現在のこの世に生を受けてうまれてきているものである」
「多くの病気は前世からの因縁によるものである」
「日本の多くの学問は間違っている」
「西欧の学問に憧れ、ギリシャやヨーロッパの文明を研究したため、人類が本来研究しなければならない道を誤ってしまった。
「学問は真理を追究するのが目的であったはずだが、今の世の中の学問は間違っている。閥ができ力を持つとウソでも真実になるからだ」
「特に悪いのは『医学』『経済学』『哲学』で、これらを本当の真理を中核にした学問として組み立て直さなければならない」
「そのためには『神に誠の智慧をもらう』誠の力を借りてやってみようとする謙虚さが必要だ」そして『本』についても言及し、
「真実を伝えるのが『本』であり、本当の本というのは、真実を語る神様の言葉を纏めて、預言書としても使えるものでなければ『本』ではない」
「娯楽雑誌は別だが、“ウソ”の記述がある本は出版するな」と神様は言われる。そのように本は真実を伝えなければならない。人々の心に残るのは真実である。心を打ち永久に残るのは本当の話である。
「昔のヤマトの言葉は、現代の常用語の十分の一で十分だった。それで意思が十分に伝えられた。今は用語が複雑すぎてかえって心を無くしている。同様に本もやさしい素直な言葉に改めなければならない」
「本当の本は、時代を超えて何時までも残る」
「ヤマトの歴史がくるっている。歴史を語るのは真実でなければならない。歴史は歴史として曲げてはならない。そうしてヤマトの歴史を正しく書き直すことが必要だ」
「日本の歴史は『六国史』といえども、その内容にウソの記述が入り込んでいる」等々
 

昭和・平成の霊能者(9)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月13日(水)16時50分20秒
返信・引用
  山内光雲のこと/続

山内光雲(昌)氏は、1929年に丹波篠山に生まれた大阪大学卒業の薬剤師である。
生家は140年続いた薬屋で、たった一人の跡取り息子として大切に育てられた。家人も特別扱いにして毎日美食を出していたという。生来頑健ではなく、病弱で薬を多用して育てられた。家業が薬屋だったこともあって新薬の効能を試す意味もあったらしい。
子供の発育には栄養が大切だとして、幼少の頃から高カロリーの御馳走ばかりを与えられた。それでも、良く風邪をひき、膝を擦りむいたりケガをしても治るのが人より遅い。そこでいわゆるマイシンと呼ばれる「化膿止薬」が使われるようになった。他にも咳が出ると「咳止め薬」、食べ過ぎたときには「消化促進剤」といったように次から次へと西洋薬が投入されたという。これでは病気にならない方がおかしい位である。あげく16歳の時には「結核性肋膜炎」で学校を一年程休学したと言う。その後の「大学在学中でも、社会に出ても私は常に病気がちでした」と光雲氏は語っている。
大阪大学薬学部卒業した頃、脊椎カリエスの症状が悪化し、それから約十年の闘病生活が続くことになる。

○以下からは、平成14年3月12日付けの手記より
30歳で結婚、32歳から闘病中にひらめいたアイデアを次々と市場に出し始め、創業した医療器具関連の製造会社、「日本ゼリア」(現「ジェクス」)は、受胎調節器具ゼリアコートのヒットで日本の市場の90%を奪取することになる。続いて、十字式哺乳瓶チュチュの特許を取り、5年間で市場の60%を占めるようになった時、また、病魔に倒れ、胃潰瘍、肺炎、腎炎、片目失明等、殆どの病気を体験することになる。40℃以上の熱が1年以上続いた。そして大喀血が半年続き、肺が破れて背中に4つの穴が開き、膿が限りなく出てやがて、内外が貫通した時、破れたアコーディオンのようになった肺は、声を出そうとすると後方から息が漏れる状態で、ものが言えず、虫の息そのままになって半年、うつぶせの姿勢で病床にいたが、その間にもアイデアは次々とひらめき、新製品はヒットして、会社の売上は46億円、従業員600人となる。

 科学を信じ、医学、薬学を信じて、その通りにした結果、この様になったのだと気付き、一切の薬を止めたが、熱はとめどもなく続き、3日に一度の喀血は洗面器に半分に達し、体重は30kg、ミイラそのままになって何度も意識不明となる。真暗闇の中、広い荒野の一本道を一人歩く自分が見える。体は余りにも辛いので、ついにやけくそになってこう叫んだ。
「私は人並みの生活をして来た。それ程悪い事はしていないつもり、だけど病気ばかりの人生で希望は全く無い。神があるなら出てきて、生死何れでもよいから今すぐ決着を付けて欲しい」。
すると天から声があった。「よければもう一度良くしよう。そしてその時には、死んだものと思って貴方の肉体を私に貸して欲しい」、「結構です」苦し紛れに約束をした。暫くして耳元に名前を呼ぶ声が聞こえ、また、この世に生きる事になった。
 

昭和・平成の霊能者(続8)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月12日(火)06時01分55秒
返信・引用
  < ヤマトやさくら>
                       唄 丸谷祥雲
 ヤヤヤオー・・・タンツンツン・・・ツン
奈良の都に春がくるよ 桜の春がくるよ

大和は神の 大和は神の
大和は神の造りし国なれば
大和やよし 大和や春 大和や桜
大和は今春の盛り ヤマタイの国

いずれまたくるや都に この那羅の都にくるべく
雁はいそぎ 走れ畝傍へ行くや 那羅、那羅、那羅
畝傍の春、うれしやの桜の花の君の
白き衣のごとく その山を包む 先に咲く
桜やうれし 大和の物部の その愛 そのいのち その力
桜に秘めて ほほえみよ 中に愛を包む

君は白妙、愛は爛漫の 桜やうれし
やや武士よ努めて集え さざれ石の 巖となりて
千代に八千代に大いなる礎、那羅の城を築かなむ

桜やうれし 奈良に桜の咲く春に 神の来る日
その日なれば 奈良に集え 奈良に集いて
語りあかさん はるばる 桜の春やよし
  タンツツン・・・ツン・・・タンツンツン

この歌の意味を光雲師は、21世紀になってある年の春、いにしえの都奈良に新しい都を築くため神が降り来る。日本中から”もののふ”が集まり宴を開く。
そして、もののふたちは新しい都を造るための活動を始める。
21世紀中には、まったく新しい都が奈良の地によみがえるだろうと言われた。

http://www.yasaka.org/YAMATO/yamatosakura.html

 

昭和・平成の霊能者(続7)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月10日(日)10時26分51秒
返信・引用
  山内光雲のこと

平成9年八月のある日私、巖は山内光雲師から歌を授かった。
それは初めてお会いした時だった。師はのっけから、「君は歌が好きだろう」と言われた。
はい好きです、と私が答えると、
「歌の好きな人に会うと音楽が聞こえてくる」と話を続けられた。
「私は長年、薬漬けになるほどの闘病生活を続けた。そしてふとしたことから神様の声が聞こえるようになり、お手伝いをするようになった。
それで人には過去世がある事を知った」師は言葉を続けられた。
「私達は男だったり女だったりして、この世に生まれ変わり生活をする。大体200年ぐらいの周期でこの世に生まれ変わる。およそこの世で1 00年、あの世で100年という具合である。そしてこの世では、苦しみ、泣き、笑い、喜びして生きる」
幸せとはどういうことか?苦しみが無ければ幸せかどうか?
ボケ老人になれば何の苦も無く、福祉の整った現代ではみんな人がしてくれる。はたしてこれが幸せか?それは死ねと言うことと一緒ではないか?というような話をされ、
「神様はほんとに良くしているのですよ。喜びだけを転がさないの、悲しみ苦しみのウラに喜びを置いておられるのですよ」
「栗でもそうでしょう。イガを取って焼き、手を真っ黒にして剥いて初めて美味しい栗が食べられる」と例えられた。
そしてこんなことも言われた。
「自分の道に外れていると、何をしてもどれだけ金を儲けていても楽しくない。商売をしていてもいつもフワフワしている。君もどんなことをしていても楽しくなかった。これは違うといつも思っていた。このままでは自分は奈良へ行きたいのに、三重へ行ってしまうと云うようなものだった」と私を見抜いて話を続けられた。
「神様が私に言っておられる、君が前世に歌った歌を代わりに歌ってくれるようにと。さぁ、ヤマトの歌ですよ。何がいい、次の中から選んでみなさい」
私は、さくら、松、杉、うめ、もや、ゆり、と挙げられた中から”さくら”を選んだ。
師はすぐ琴のような声を出し、前奏から始められたのが次の歌“ヤマトや桜”です。
 

昭和・平成の霊能者(続6)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月10日(日)09時57分36秒
返信・引用
  ここで「巷の神々の一人」とも言える、もう一人の霊能者を紹介する。
それは、ひかりの会・山内光雲氏(本名:山内昌)で、平成九年筆者五十二歳の時、姉の紹介により、高槻の事務所で初めて会った。
まったく驚きの出逢いだった。
あらかじめ自筆で書いて出していた紙片(氏名と年齢のみ)を見て、氏は悉く言い当てた。
まず配偶者のこと、娘のこと。そして前世のことである。
ただし前世のことは、本当の事かどうか確認のしようがない。
確認のしようは無いが、思い当たることや、確信できることが多くあった。
氏は大阪大学薬学部卒業の薬剤師であり、多くの実用新案特許を持つ発明家である。また、「ひかりの会」創立者で、初代会長でもある。
この山内光雲(故人)こその霊能者と呼ぶに相応しいと思う。

巖は山内光雲氏の元に毎日のように押しかけて師と仰ぐようになる。
 

昭和・平成の霊能者(続5)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 9日(土)18時26分49秒
返信・引用
  大師堂の修行僧のこと

吉野町大師堂に大森智祥という修行僧がいた。
この青年は和歌山の生まれだといい、大和五條野原の十輪寺の養子になって大森智祥と名乗っていたが、事情で十輪寺を出た。その後大師堂有力檀家の吉井けいという人の口添えで大師堂のお守り(留守番僧)していた。吉井けいは智祥の人柄にほれ込み、これもまた同様に目をかけていた清子と結婚させようとする。清子も以前より智祥の評判を聞き、好意を持っていたので反対する理由がなく、村の多くの人たちの賛同も得て結婚をする。

やがて清子は夫の大森智祥と大師堂を出て、五條市野原町の十輪寺の住職夫婦として移り住みました。
智祥は住職として大師堂との兼務にいそしみ、清子は妻として家事の全般から檀家の家庭の相談相手まで、毎日を忙しくつとめていました。
子供にもめぐまれて、檀家からも羨ましがられるような日々をおくっていた清子でしたが、
次男が生まれたあたりから、なんとなく身体の不調の日々が続きました。
これといった原因が分からないうちに、肩が凝り手足が痛み、働き者の清子でも苦痛を訴えて起き上がれない日が続きました。
近所の医者で看てもらっても分からず、智祥はうろたえて大阪医大まで清子を連れて行ったこともありましたが、納得のいく回答は得られませんでした。
あるとき近所の古老が「この寺には辨財天さんが一体いやはるはずや」
と言いだした事から、境内建物の隅々や物置の奥まで改めてみました。
すると境内の古い祠の中から、両手が肩のあたりからもげ落ち、埃にまみれて薄黒く汚れた、
紛れもなく辨財天の木像が片隅にころがっていました。
更に本堂の床下からも、護摩の灰でつくった小さな辨財天の像があらわれました。
この像は空海の作であり、木像は行基の作でした。
ただちに祠は清掃し、木像は修理に出し、護摩灰像も手入れして鄭重にお祭りしました。
すると清子の病気は全快しました。
この頃から清子は辨財天像と一体化したかのように、霊能力を併せて持つようになっていきました。
幼少の頃からも他の子供たちとは違う不思議な力を持った清子でしたが、
辨財天像を見つけてお祭りした頃からより一層その靈能力が開花したようでした。
まず近所の長屋に住む檀家の主人と長男の病気を、的確な指示で全快させました。
次は吉野郡白銀村の婦人の業病をぬぐい去りました。
多くの病気の原因は、先祖代々からの深い因縁よるものだと清子は言います。
辨天宗宗祖伝『生命の水』によれば、
「こうしてこの年、昭和九年を境に、清子の平凡な妻、母としての生活は、自分の意志をこえた大いなる意志の力によって押し流され、一宗の宗祖、うつし身の神としての生涯へ転換したのである。」と記されています。
そして信者は五條市野原から徐々に広がって行きました。
たちまち周辺の市町村にも、その評判は伝わります。
増え続ける信者は、宗祖大森智辯の神示を求めて殺到しました。
列車が国鉄和歌山線五条駅に到着すると、信者は一刻も早く宗祖に面談してもらいたくて、
野原町の十輪寺に向かって一斉に駆け出すのでした。
その事から「走り辨天」と人々が言い始めたのです。

●写真は【上】十輪寺山門の寺銘板
    【中】辨天宗総本山如意寺(大和本部)
    【下】大和本部節分祭での風景(『生命の水』宗祖伝記より転写)
       中央に宗祖ご夫妻。向かって左から女優の浪花千栄子、清川虹子、右に島倉千代子の各氏
 

昭和・平成の霊能者(続4)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 9日(土)11時41分8秒
返信・引用
  大森智辯(吉井清子)のこと(※)
辨天宗宗祖、智辯尊女は奈良県吉野郡吉野町飯貝の里で明治四十二年四月一日に誕生。幼名を清子と名付けられた。吉井重吉・スエ夫妻の二番目の子供である。
丸々と太って健康そうなこの子が生まれた日、家の周りの草花が一斉に咲き始めという。
「東南角の桜なんて、毎年十日過ぎでないと咲かへんねんで。それがあの日はパアッと咲きよった。やっぱこの子は毘沙門はんの授かり児や!」スエは確信があった。
一昨年長男が生まれた後、産後の回復がはかばかしくなく、寝たり起きたりの生活を続けたスエは、思い切って以前から信仰していた毘沙門天にすがることにしたのである。吉野川沿いの道を歩いて下り、山路を杖にすがって信貴山に上り一か月近く参篭した。その時に授かった毘沙門天はんの子だとスエは信じていた。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
ちなみに清子が生まれた飯貝の里は『古事記伝』によれば、古代吉野の三部族の一つ井氷鹿(あるいは井光と表記)の里だとの説もあるようだ。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
吉井家の前には蓮如上人の開山ともいわれる六雄山本善寺といい、飯貝御坊とも呼ばれた浄土真宗の古刹があった。周辺の子供たちは吉野川の川原同様にこの寺の周辺が遊び場の中心であった。飯貝の人たちは宗派を超えてこの寺を愛した。二年おいて妹も生まれ、清子はこの美しい宗教的風土の中ですくすくと育っていった。
家は代々本善寺の有力な檀家の一つで、文具を売る商店だった。ところが父祖の代に二度の火災で経営を続けられなくなった。重吉は養蚕業を始めたがある時、桑の葉の取引で重吉の留守中、スエが重吉への伝言の取次の不手際から大損することになって、義母と重吉から「出て行ってもらおう」と追い出されてしまった。
長男の勲を連れ、長女清子の手を引き、次女の節子を背負ったスエは子供三人を抱えていったいどこへ行こうというのか、当てもないまま外へ出た。
知らぬ間に吉野川の河川敷を歩いていた。暗闇の中に水音が聞こえていた。
「母ちゃん、うちへ帰ろう」勲(いさお)は泣きながら言う。
「母ちゃんは帰るうちがのうなったんや」
スエは川に身を投じて早く楽になりたくなっていた。
「な、みんなで死のう」
「死ぬのはいやや」勲は泣いてスエに縋りついた。
「死んではならん!」天を見上げたスエは阿弥陀さまを見た。それでスエもこの世に踏みとどまったのだった。
次々と多くの苦難がスエ母子を襲ったが、母子はその都度奇跡的な出来事に遭遇して難を逃れた。もう一思いに命を絶とうと気は失せていたが、重苦しく心にのしかかるような黒い思いは消えなかった。
「スエはん、何を一人でくよくよしてはるねん。こんな時いつも信仰してはる毘沙門天はんにすがってみたらよろしやおへんか」
ある人が、信貴山で三年間修業を積み霊感を受けたという大地教の教祖「楢(なら)井(い)のお代(だい)さん」を紹介してくれた。楢井というのは飯貝から更に峠一つを越えた山奥の地名だった。
スエの楢井詣りが始まって五日目の夜だった。毘沙門天の神示がお代さんの口から発せられた。
「今ここに集まっている者のうち、子供三人連れた女子(おなご)に告げる」
びっくりしてスエは神示を聞いた。毘沙門天の声は雷のようにスエの耳を打った。
「名前は言わない。お前の連れている三人の子供のうちの一人に、神の魂を持つ子がいるぞ。やがて人を救い、世のため人のため、神と崇められるようになるぞ」
スエは何となくそれは清子のことだと思った。
「その女子に言う。辛抱せいよ、辛抱せいよ。どの様につらいことがあっても今の家を出てはならぬぞ、その子をよう育てるが良いぞ。ゆめゆめ疑うな」
スエは清子が今に神と崇められるような人物になるだろうと本気で思った。
スエが吉野神宮の春祭りに三人の子供を連れて行った時、人混みで財布を無くし、スエは途方に暮れて困ってしまったことがあった。ふと気づくと清子が石のかけらで地面をほじくっており、しばらくして五十銭銀貨をつまみ出した。スエは驚いて「どうしてお金が埋まっていると分かったんや」と問いただしても「だって、そこにあったもン」と答えただけだった。スエは「弘法大師さんみたいな子やな」と思ったという。
そういった不思議な力を見せた清子は、長男勲功の死も予言した。その死の悲しみもさめやらぬ内に重吉の関係する生糸工場が破綻して、一家は一夜にして財産を失った。明日食べる米の心配もしなければならなかった。
「父ちゃん、心配せんでええ。私働きに出る」
破産状態の家計を救うため清子は年季奉公に出た。
こうして清子は苦難の道を歩み始めたのである。
『生命の水』七十四ページに次のように記されている。
……「かんなん汝を玉にする」という言葉がある。ふるい箴言ではあるが、辨天宗宗祖、智辯尊女の生涯を眺めるとき、この古い諺が、今の世によみがえってくる感じがするのだ。清子が晩年になって思い出しても、昨日のできごとのように胸をかんでくる苦しみ多かった少女時代の日々。しかし、この苦難の体験がなかったなら、果たして、今日、尊女と崇められる辨天宗宗祖の存在があったかどうか。……
幼少の頃から数々の奇跡的な行いが伝えられている清子だが、十三歳の頃、家計を助ける為に自分から進んで働きに出ると言いだし、後に「女工哀史」とうたわれたほど過酷な労働を課す製糸工場へ年季奉公に出たのである。
 その製糸工場でも清子は生来の負けじ魂を発揮して、たちまち生糸紡ぎの技術を自分のものにし、抜群の成績をあげて表彰を受けたこともあるという。
様々な苦悩の体験を乗り越えて、家の負債を整理し家計の危機を切り抜けて、清子はやっとのことで生まれ故郷の吉野町飯貝へ戻ってきたのであった。
 

昭和・平成の霊能者(続3)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 9日(土)10時32分22秒
返信・引用
  ここで話が多少脇にそれるが、政治家であり作家でもある石原慎太郎氏が昭和四十二年九月に上梓した『巷の神々』/サンケイ新聞出版局/より引用する。
この文中で氏は------------
「天の大きな恩寵を受けた人間、ということで、教祖というものの性格は大同小異といえるが、現実にその人自身の口からその経緯を聞かされ、その人の行った超現実的なものごとを目にするのは、なんとも興味深い。その点、辨天宗祖大森智弁は、私が教祖自身の活躍中にじかに面談出来た一人であって、茨木で彼女の話を聞いて過ごした一夜は、私にとって甚だ興味深いものだった」と記している。
※以下に記す一連の記事は、辨天宗・宗務庁発行の宗祖自伝『生命の水』を参考にした。
そして収載されていた写真も転写・転載させていただいている。謹んで御礼申し上げたい。
 

昭和・平成の霊能者(続2))

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 8日(金)07時49分21秒
返信・引用
  巖(イワオ)は奈良県吉野郡白銀村(現在の五條市西吉野町)で、終戦の年の五月二十九日に生まれた。
両親は待ちに待った男の子だったので、嬉しかった半面「今頃男の子が生まれても鬼畜米英にチンチン取られてしまう」と嘆いたそうである。
その頃すでに一般の人々の間にも、この戦争は負け戦のようだとささやかれていた。戦争に負ければ大人の男たちは殺され、男の子は去勢されると噂されていたのだ。
不思議なことなのだが、巖はその日の記憶が鮮明にある。天井からぶら下げられた裸電球には傘が被されてあって、更にその上から黒い布で覆い、その明かりは真下の部分以外は照らさず、部屋全体が随分と暗かったことを覚えている。灯火管制のためである。電球は下で布団に寝ている自分の周辺だけを照らしていたのだった。でも、この記憶が誕生後すぐのものだとは言えない。生まれて間もない赤子にそのような記憶が残るはずがないからである。でも、確証はないが巖自身は誕生日から玉音放送のあった八月十五日までの間の記憶だと思っている。(灯火管制の頃)
終戦の日の記憶と思えるものは他に何もない。
次の記憶は、母がやっと四歳になった巖を連れて村の拝屋(おがみや)さんへ行った時のものである。近所の老婆に「この子は癇性が強いので“癇虫(かんむし)”を取ったほうが良いですよ」言われ、同村の湯川ふろんどの拝屋さんを紹介されたからだった。
そこは白銀村湯川の不動堂(近辺の地の人は“ふろんど”と言い慣わしている)近くの民家に住む老人の家だった。(前項の記事と部分的に重複)
まず巖の左掌(ひだりてのひら)に筆で渦巻き模様を墨書した。次に数珠を揉みながら呪文を唱える。すると左手の親指を除く四本の指先からウジ虫のような白い虫が上り立って出て行った。この時のことは今も巖の記憶にはっきりと残っている。これで長男の癇癪持ちは治ったと母はよく人に言っていたそうである。
癇性は治ったものの、小学校低学年の頃の巖は熱を出しては頭が痛いと言い、学校をよく休んだ。ある時は法定伝染病の猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、当時村には隔離病棟が無かったので、両親は医者の勧めによって家の一部屋に隔離した。有効な治療薬はなく、自然治癒力に期待して待つしか手は無かったようである。当時の猩紅熱は命に関わる子供の大病だった。これで亡くなった子供たちは多くいる。巖の場合も例外ではなく、高熱が続いてうなされ、毎日のように病魔に襲われる夢を見た。暴れることがあるので母親ではなく父親が隣で寝るのだが、ある夜は急に隣の父親を殴りつけたそうである。イワオの記憶では、毎夜黒い大きな鬼が上から被さって首を絞めに来る。振りほどいても押しのけても、何度でも上からのしかかってきて首を絞めつけるのだ。
「鬼が殺しに来る、助けて」と親に助けを求めても、こればかりは悪夢としか言いようがないので、両親としてはどうとも致し方なかった。このような状態が数日続いたが、この病魔からは何とか逃れることができた。

次の記憶は筆者が十歳頃、「走り弁天」といわれ、評判だった野原の弁天さんに、これも母親に連れられて会いに行った時のことだ。
その頃母親は弁天さんの熱心な信者になっていた。
以前より母親は冷え性で、下腹が痛み起き上がれなかったという。それを野原の弁天さんが治してくださったのだと母親はいつも感謝していた。母はその時以来の古い信者の一人だったのである。
その頃の弁天さんは病気直しで、すでに有名になっていた。文字通り「黙って座ればぴたりと当たる」である。少しでも早く弁天さんの「お蔭(かげ)」(信者は宗祖の病気直しのお指図をこのように呼ぶ)が貰いたくて、汽車が国鉄和歌山線五条駅に着くと、先を争って野原町十輪寺を目指して一斉に駆け出した。それで誰が言うともなく「走り弁天」と異名で呼ばれていたのである。
実のところ、筆者も智辯宗祖にお蔭を戴いた者の一人である。
10歳前後の子供の頃、何の病か目を患って良く見えないようになったことがあった。
「弁天さん(母はいつもそうお呼びした)に診てもらおう」と、母は私を連れてバスで隣町の大和五條へ行った。順番が来て母と私は宗祖、弁天さんの座机の前に座った。弁天さんと母がどのような話をしたかは覚えていない。弁天さんは目の前で、薬草の様なものを手で捏ねておられた。
その捏ねられた薬草の団子を、傍らの一人の青年が、私の左手首の内側に押しつけて、包帯で巻いてくれた。後で母から「あの人が弁天さんの息子さんやで」と聞かされた。
あくる日に包帯を取ると、手首に腕時計大の水ぶくれが出来ていた。
「毒を集めた水なので、それを捨てると治りますよ」と、あらかじめ聞いていたので、全く痛くもなく何の心配もしなかった。
結果的にこれで私の眼病は完治した。以降、眼医者の世話になったことはない。

 

昭和・平成の霊能者

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 7日(木)21時44分4秒
返信・引用
  霊能者とは、
「日常の世界と神霊の世界とを結びつける資質を持った宗教的職能者。預言者・シャーマン・霊媒など。」と『広辞苑』には説明されている。
現代においても、街中の占い師や、テレビにも出演するような有名な占い師から、新興宗教の教祖に至るまで、霊的能力を自称する人たちが多く居る。ところが本当に心霊と交信できる霊能を持った「ほんもの」は殆んどいないと言ってもいいと思う。
そこで、多くの新興宗教の門をくぐり、信者として実地に体験した筆者の経験から、本物と感じられた人物をあげてみたいと思うのである。

次に続ける記事は、『巷の神々』石原慎太郎著、『生命の水(智辯尊女伝)』山岡荘八監修、『アマテラスのメッセージ 大和物語』山内光雲著などを大いに参考にさせていただいた。改めて感謝申し上げる。

●霊能者との出逢い体験
①昭和25・26年頃の拝屋(おがみや)さん:吉野郡湯川蔵王堂民家老人(名前不詳)
 癇性が強過ぎるので治そうと、筆者が五歳前後の幼年期に母親に連れて行かれて治療してもらった。
【治療方法】左掌(ひだりのてのひら)へ、筆に墨を付けて渦巻模様を描き、
 呪文を唱えて癇虫(かんむし)を追い出すというような説明の後、その呪術を行う。
(親指を除く4本の指先からウジ虫のような白い虫が上り立って出て行った。)
 この拝み屋さんで(かんむし)を除いてもらったと母親は言っていた。

 

アンゴルモアの大王とは?

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 4日(月)18時41分48秒
返信・引用
  アンゴルモアの大王とは、新型コロナウィルスのことだったのかも知れない。
そうだとすれば、20年ほど遅れてノストラダムスの預言が成就しようとしていることになる。
「悪の大王」は北からやってくると言われていたように、コロナウィルスの発生地は中国・武漢市のようなのでこれも符合する。
「アンゴルモアの大王」とは、強力な病魔菌の大軍団のことだったのだろうか?
このような悪の軍団には、一兵たりとも入国を許すわけにはいかない。
 

狭山池の桜開花

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 3月23日(月)14時33分7秒
返信・引用
  本日、大阪狭山池の桜が開花をはじめました。
大阪南部地区の春が本格化するのは、狭山池の桜が咲き始めてからと、いつも思っています。
まず、初めに先は始めるのはコシノヒガンからでしょうか。

●写真は開花はじめた狭山池のコシノヒガン桜
 くりっくすると拡大できます 
 

宇佐美けい 作品展(続)

 投稿者:丸谷いはほ  投稿日:2020年 3月18日(水)15時27分18秒
返信・引用
  「宇佐美けい 作品展」に行ってきました。
宇佐美けい氏は、紀州の旧家ご出身です。
画集を出版なさったのがご縁で、今では「友人の一人」言ってくださって懇意にしていただいております。
宇佐美さんとお出会いして話をすると、私はいつも有吉佐和子の小説『紀ノ川』が彷彿と心にうかびます。
写真は展示会場でのスナップですが、知性の香るようなノーブルな作風がとても素敵です。
よろしければ機会を見つけて、ぜひ一度ご鑑賞ください。
 

宇佐美けい 作品展

 投稿者:丸谷いはほ  投稿日:2020年 3月 5日(木)17時14分11秒
返信・引用
  「宇佐美けい作品展」のご案内
と き:2020年3月17日(火)~3月22日(日)午前11時から午後7時 最終日は午後4時まで
ところ:池田市天神1ー5-16  阪急宝塚線・石橋阪大前駅 西口前、徒歩3分
    画廊 ぶらんしゅ          TEL(072)761-2626

●以下の写真は、案内ハガキを複写したものです。 不手際・不鮮明な点はお許しください。
 

小山田住吉神社2

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 2月27日(木)18時39分7秒
返信・引用
  前項の続きです。
写真は、上は段上 社殿正面(住吉神社拝殿前)
    中は摂社、諏訪社
    下に摂社、高天原神社
 

小山田住吉神社1

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 2月27日(木)18時24分26秒
返信・引用
  大阪府河内長野市、小山田住吉神社に行ってきました。
大変寒い日で小雪がちらついておりました。

この神社は河内長野の北部、小山田集落高台に鎮座している氏神です。
現在は、南側の新興住宅地の方から北向きに参道が続いていますが、本来は小山田村から東に上がる(現在の西側参道)が正面参道でした。
小山田町から急な石段を真東に上がると、真正面に鳥居があり、その奥が拝殿・本殿と直線で続きます。
写真は旧小山田村から参道風景です。
 

年末の住吉っさん

 投稿者:やさか  投稿日:2019年12月29日(日)23時14分35秒
返信・引用
  初詣の準備で慌ただしい住吉大社に行ってきました。
写真(上): 業者の出入りも激しい西側正面入口
写真(中): 初辰まいりの準備が整った楠珺社
写真(下): 楠珺社前、神木の大楠。周りでは初詣の準備がすすむ
 

神社史研究会

 投稿者:丸谷巖(いはほ)  投稿日:2019年12月 4日(水)08時20分23秒
返信・引用
  12月7日、神社史研究会 第五十五回例会は、クラブツーリズムの名古屋会場で開催されます。
当日は北畠親房研究の第一人者、皇學館大学・白山芳太郎教授の「神皇正統記を読む(11)の講義が予定されております。
その後夕刻より忘年会(例会場近くの居酒屋)です。

●詳細は下記の神社史研究会のホームページ
http://www.jinja-net.jp/jinja-shi/annai.html
「問い合わせ(参加)フォーム」 をご利用ください。
 

信楽 五十鈴神社に参拝

 投稿者:やさか  投稿日:2019年11月23日(土)19時30分2秒
返信・引用
  信楽で美味しいと評判の蕎麦の店、黒田屋へ行きました。
噂通り本当に美味しい「お蕎麦」でした。
お店の内外の雰囲気も蕎麦店に相応しくお勧めです。

すぐ近くには五十鈴神社と、有名な信楽焼のお店があったので、愛嬌のあるタヌキさんお顔を一つ一つじっくりと見て廻りました。
 

「渡邊照子作品展」

 投稿者:丸谷いはほ  投稿日:2019年11月22日(金)13時59分34秒
返信・引用
  甲賀市あいこうか市民ホールで催されている渡邊照子氏の個展に行ってきました。
いつもは大阪市内のギャラリーを会場とすることが多かったのですが、
今回はご実家のある滋賀県甲賀市が展覧会場となりました。
御母堂も芸術家で、20年ほど前にその作品集出版の手伝いをさせていただいたことがありました。以来氏には懇意にしていただいております。
展覧会場には、来場者がメッセージを残せるノートが置かれてあり、次のように書きました。

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渡邊さんの産んだ、素晴らしい作品群に圧倒されました。
これらの子供たちは、渡邊さんから言葉をかけられ魂を宿しているので、方形のキャンバスに閉じ込められたままでは居れません。
人目が無くなると出て来て、仲間と遊んだり一人で気ままに寝転んだりしています。
でも、一番嬉しいのは、お母さんから又声をかけられることなのでした。/丸谷いはほの感想文
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●上段の作品は:「春を待つ」油彩130×162cm
クリック拡大してご覧ください。
でも、ケータイカメラなので解像力が弱く、作品の見事さが表現できないのが残念です
 

能楽座大淀町公演

 投稿者:やさか  投稿日:2019年11月18日(月)09時03分45秒
返信・引用
  吉野郡大淀町は「桧垣本猿楽座」の拠点があった“能楽のふるさと”とも言えるところです。
今も「桧垣本」の地名が残っています。
その大淀町文化会館、あらかしホールで公演された能楽座の仕舞「吉の天人」や能「二人静」を鑑賞してきました。
 

『20億光年の孤独』谷川俊太郎

 投稿者:丸谷いはほ  投稿日:2019年11月12日(火)18時40分6秒
返信・引用
  昭和43年、290円で手にした一冊の詩集、それが谷川俊太郎の詩との出会いでした。
そのときの感動は鮮烈で、今も忘れることは出来ません。
おりにふれては読みかえし、ぼろぼろになった今も大事に手元に置いている、宝物のような一冊です。

大いなるもの、自然への畏敬、
日月星辰にあなたは何を祈るのでしょう

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祈りとは 今日一日を感謝し
     今日の一日を反省して
          明日への希望を誓うことです

               平成13年5月10日  マルヤ
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上記は、昭和43年に書店で手にした一冊の詩集との出逢いの感動を、後に自分が立ち上げたホームページに綴ったものです。
この詩集のことは下記のページにも掲出しています。

http://www.yasaka.org/KOBO/tanigawa.html

 

大阪城公園の探鳥会

 投稿者:やさか  投稿日:2019年10月28日(月)15時21分58秒
返信・引用
  日本野鳥の会/大阪城公園探鳥会に、初めて参加しました。

写真上:ひときわ高い樹上の先端にいる「ジョウビタキ」。 羽毛の色からオスと思われます
写真中:一斉に梢を見上げて、双眼鏡や望遠カメラを向ける探鳥会メンバー
写真下:天守閣の裾野から、真下の堀に水鳥が居ない探す同会メンバー

朝の九時から始まったのですが、あまりにも大勢の参加者に私は少々驚きました。
男女とも年配者のように見受けましたが、中には小学校低学年の参加者も居て、皆さん顔なじみの方々も多いようで、和気あいあいと探鳥を楽しんでおられました。
 

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