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昭和・平成の霊能者(続2))

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 8日(金)07時49分21秒
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  巖(イワオ)は奈良県吉野郡白銀村(現在の五條市西吉野町)で、終戦の年の五月二十九日に生まれた。
両親は待ちに待った男の子だったので、嬉しかった半面「今頃男の子が生まれても鬼畜米英にチンチン取られてしまう」と嘆いたそうである。
その頃すでに一般の人々の間にも、この戦争は負け戦のようだとささやかれていた。戦争に負ければ大人の男たちは殺され、男の子は去勢されると噂されていたのだ。
不思議なことなのだが、巖はその日の記憶が鮮明にある。天井からぶら下げられた裸電球には傘が被されてあって、更にその上から黒い布で覆い、その明かりは真下の部分以外は照らさず、部屋全体が随分と暗かったことを覚えている。灯火管制のためである。電球は下で布団に寝ている自分の周辺だけを照らしていたのだった。でも、この記憶が誕生後すぐのものだとは言えない。生まれて間もない赤子にそのような記憶が残るはずがないからである。でも、確証はないが巖自身は誕生日から玉音放送のあった八月十五日までの間の記憶だと思っている。(灯火管制の頃)
終戦の日の記憶と思えるものは他に何もない。
次の記憶は、母がやっと四歳になった巖を連れて村の拝屋(おがみや)さんへ行った時のものである。近所の老婆に「この子は癇性が強いので“癇虫(かんむし)”を取ったほうが良いですよ」言われ、同村の湯川ふろんどの拝屋さんを紹介されたからだった。
そこは白銀村湯川の不動堂(近辺の地の人は“ふろんど”と言い慣わしている)近くの民家に住む老人の家だった。(前項の記事と部分的に重複)
まず巖の左掌(ひだりてのひら)に筆で渦巻き模様を墨書した。次に数珠を揉みながら呪文を唱える。すると左手の親指を除く四本の指先からウジ虫のような白い虫が上り立って出て行った。この時のことは今も巖の記憶にはっきりと残っている。これで長男の癇癪持ちは治ったと母はよく人に言っていたそうである。
癇性は治ったものの、小学校低学年の頃の巖は熱を出しては頭が痛いと言い、学校をよく休んだ。ある時は法定伝染病の猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、当時村には隔離病棟が無かったので、両親は医者の勧めによって家の一部屋に隔離した。有効な治療薬はなく、自然治癒力に期待して待つしか手は無かったようである。当時の猩紅熱は命に関わる子供の大病だった。これで亡くなった子供たちは多くいる。巖の場合も例外ではなく、高熱が続いてうなされ、毎日のように病魔に襲われる夢を見た。暴れることがあるので母親ではなく父親が隣で寝るのだが、ある夜は急に隣の父親を殴りつけたそうである。イワオの記憶では、毎夜黒い大きな鬼が上から被さって首を絞めに来る。振りほどいても押しのけても、何度でも上からのしかかってきて首を絞めつけるのだ。
「鬼が殺しに来る、助けて」と親に助けを求めても、こればかりは悪夢としか言いようがないので、両親としてはどうとも致し方なかった。このような状態が数日続いたが、この病魔からは何とか逃れることができた。

次の記憶は筆者が十歳頃、「走り弁天」といわれ、評判だった野原の弁天さんに、これも母親に連れられて会いに行った時のことだ。
その頃母親は弁天さんの熱心な信者になっていた。
以前より母親は冷え性で、下腹が痛み起き上がれなかったという。それを野原の弁天さんが治してくださったのだと母親はいつも感謝していた。母はその時以来の古い信者の一人だったのである。
その頃の弁天さんは病気直しで、すでに有名になっていた。文字通り「黙って座ればぴたりと当たる」である。少しでも早く弁天さんの「お蔭(かげ)」(信者は宗祖の病気直しのお指図をこのように呼ぶ)が貰いたくて、汽車が国鉄和歌山線五条駅に着くと、先を争って野原町十輪寺を目指して一斉に駆け出した。それで誰が言うともなく「走り弁天」と異名で呼ばれていたのである。
実のところ、筆者も智辯宗祖にお蔭を戴いた者の一人である。
10歳前後の子供の頃、何の病か目を患って良く見えないようになったことがあった。
「弁天さん(母はいつもそうお呼びした)に診てもらおう」と、母は私を連れてバスで隣町の大和五條へ行った。順番が来て母と私は宗祖、弁天さんの座机の前に座った。弁天さんと母がどのような話をしたかは覚えていない。弁天さんは目の前で、薬草の様なものを手で捏ねておられた。
その捏ねられた薬草の団子を、傍らの一人の青年が、私の左手首の内側に押しつけて、包帯で巻いてくれた。後で母から「あの人が弁天さんの息子さんやで」と聞かされた。
あくる日に包帯を取ると、手首に腕時計大の水ぶくれが出来ていた。
「毒を集めた水なので、それを捨てると治りますよ」と、あらかじめ聞いていたので、全く痛くもなく何の心配もしなかった。
結果的にこれで私の眼病は完治した。以降、眼医者の世話になったことはない。

 
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