スレッド一覧

  1. ブランド激安市場 bag53(0)
  2. ブランド激安市場 bag53(0)
  3. ブランド激安市場 bag53(0)
  4. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全4)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:17/443 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

昭和・平成の霊能者(続4)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 9日(土)11時41分8秒
  通報 返信・引用
  大森智辯(吉井清子)のこと(※)
辨天宗宗祖、智辯尊女は奈良県吉野郡吉野町飯貝の里で明治四十二年四月一日に誕生。幼名を清子と名付けられた。吉井重吉・スエ夫妻の二番目の子供である。
丸々と太って健康そうなこの子が生まれた日、家の周りの草花が一斉に咲き始めという。
「東南角の桜なんて、毎年十日過ぎでないと咲かへんねんで。それがあの日はパアッと咲きよった。やっぱこの子は毘沙門はんの授かり児や!」スエは確信があった。
一昨年長男が生まれた後、産後の回復がはかばかしくなく、寝たり起きたりの生活を続けたスエは、思い切って以前から信仰していた毘沙門天にすがることにしたのである。吉野川沿いの道を歩いて下り、山路を杖にすがって信貴山に上り一か月近く参篭した。その時に授かった毘沙門天はんの子だとスエは信じていた。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
ちなみに清子が生まれた飯貝の里は『古事記伝』によれば、古代吉野の三部族の一つ井氷鹿(あるいは井光と表記)の里だとの説もあるようだ。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
吉井家の前には蓮如上人の開山ともいわれる六雄山本善寺といい、飯貝御坊とも呼ばれた浄土真宗の古刹があった。周辺の子供たちは吉野川の川原同様にこの寺の周辺が遊び場の中心であった。飯貝の人たちは宗派を超えてこの寺を愛した。二年おいて妹も生まれ、清子はこの美しい宗教的風土の中ですくすくと育っていった。
家は代々本善寺の有力な檀家の一つで、文具を売る商店だった。ところが父祖の代に二度の火災で経営を続けられなくなった。重吉は養蚕業を始めたがある時、桑の葉の取引で重吉の留守中、スエが重吉への伝言の取次の不手際から大損することになって、義母と重吉から「出て行ってもらおう」と追い出されてしまった。
長男の勲を連れ、長女清子の手を引き、次女の節子を背負ったスエは子供三人を抱えていったいどこへ行こうというのか、当てもないまま外へ出た。
知らぬ間に吉野川の河川敷を歩いていた。暗闇の中に水音が聞こえていた。
「母ちゃん、うちへ帰ろう」勲(いさお)は泣きながら言う。
「母ちゃんは帰るうちがのうなったんや」
スエは川に身を投じて早く楽になりたくなっていた。
「な、みんなで死のう」
「死ぬのはいやや」勲は泣いてスエに縋りついた。
「死んではならん!」天を見上げたスエは阿弥陀さまを見た。それでスエもこの世に踏みとどまったのだった。
次々と多くの苦難がスエ母子を襲ったが、母子はその都度奇跡的な出来事に遭遇して難を逃れた。もう一思いに命を絶とうと気は失せていたが、重苦しく心にのしかかるような黒い思いは消えなかった。
「スエはん、何を一人でくよくよしてはるねん。こんな時いつも信仰してはる毘沙門天はんにすがってみたらよろしやおへんか」
ある人が、信貴山で三年間修業を積み霊感を受けたという大地教の教祖「楢(なら)井(い)のお代(だい)さん」を紹介してくれた。楢井というのは飯貝から更に峠一つを越えた山奥の地名だった。
スエの楢井詣りが始まって五日目の夜だった。毘沙門天の神示がお代さんの口から発せられた。
「今ここに集まっている者のうち、子供三人連れた女子(おなご)に告げる」
びっくりしてスエは神示を聞いた。毘沙門天の声は雷のようにスエの耳を打った。
「名前は言わない。お前の連れている三人の子供のうちの一人に、神の魂を持つ子がいるぞ。やがて人を救い、世のため人のため、神と崇められるようになるぞ」
スエは何となくそれは清子のことだと思った。
「その女子に言う。辛抱せいよ、辛抱せいよ。どの様につらいことがあっても今の家を出てはならぬぞ、その子をよう育てるが良いぞ。ゆめゆめ疑うな」
スエは清子が今に神と崇められるような人物になるだろうと本気で思った。
スエが吉野神宮の春祭りに三人の子供を連れて行った時、人混みで財布を無くし、スエは途方に暮れて困ってしまったことがあった。ふと気づくと清子が石のかけらで地面をほじくっており、しばらくして五十銭銀貨をつまみ出した。スエは驚いて「どうしてお金が埋まっていると分かったんや」と問いただしても「だって、そこにあったもン」と答えただけだった。スエは「弘法大師さんみたいな子やな」と思ったという。
そういった不思議な力を見せた清子は、長男勲功の死も予言した。その死の悲しみもさめやらぬ内に重吉の関係する生糸工場が破綻して、一家は一夜にして財産を失った。明日食べる米の心配もしなければならなかった。
「父ちゃん、心配せんでええ。私働きに出る」
破産状態の家計を救うため清子は年季奉公に出た。
こうして清子は苦難の道を歩み始めたのである。
『生命の水』七十四ページに次のように記されている。
……「かんなん汝を玉にする」という言葉がある。ふるい箴言ではあるが、辨天宗宗祖、智辯尊女の生涯を眺めるとき、この古い諺が、今の世によみがえってくる感じがするのだ。清子が晩年になって思い出しても、昨日のできごとのように胸をかんでくる苦しみ多かった少女時代の日々。しかし、この苦難の体験がなかったなら、果たして、今日、尊女と崇められる辨天宗宗祖の存在があったかどうか。……
幼少の頃から数々の奇跡的な行いが伝えられている清子だが、十三歳の頃、家計を助ける為に自分から進んで働きに出ると言いだし、後に「女工哀史」とうたわれたほど過酷な労働を課す製糸工場へ年季奉公に出たのである。
 その製糸工場でも清子は生来の負けじ魂を発揮して、たちまち生糸紡ぎの技術を自分のものにし、抜群の成績をあげて表彰を受けたこともあるという。
様々な苦悩の体験を乗り越えて、家の負債を整理し家計の危機を切り抜けて、清子はやっとのことで生まれ故郷の吉野町飯貝へ戻ってきたのであった。
 
》記事一覧表示

新着順:17/443 《前のページ | 次のページ》
/443