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昭和・平成の霊能者(続5)

 投稿者:やさか  投稿日:2020年 5月 9日(土)18時26分49秒
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  大師堂の修行僧のこと

吉野町大師堂に大森智祥という修行僧がいた。
この青年は和歌山の生まれだといい、大和五條野原の十輪寺の養子になって大森智祥と名乗っていたが、事情で十輪寺を出た。その後大師堂有力檀家の吉井けいという人の口添えで大師堂のお守り(留守番僧)していた。吉井けいは智祥の人柄にほれ込み、これもまた同様に目をかけていた清子と結婚させようとする。清子も以前より智祥の評判を聞き、好意を持っていたので反対する理由がなく、村の多くの人たちの賛同も得て結婚をする。

やがて清子は夫の大森智祥と大師堂を出て、五條市野原町の十輪寺の住職夫婦として移り住みました。
智祥は住職として大師堂との兼務にいそしみ、清子は妻として家事の全般から檀家の家庭の相談相手まで、毎日を忙しくつとめていました。
子供にもめぐまれて、檀家からも羨ましがられるような日々をおくっていた清子でしたが、
次男が生まれたあたりから、なんとなく身体の不調の日々が続きました。
これといった原因が分からないうちに、肩が凝り手足が痛み、働き者の清子でも苦痛を訴えて起き上がれない日が続きました。
近所の医者で看てもらっても分からず、智祥はうろたえて大阪医大まで清子を連れて行ったこともありましたが、納得のいく回答は得られませんでした。
あるとき近所の古老が「この寺には辨財天さんが一体いやはるはずや」
と言いだした事から、境内建物の隅々や物置の奥まで改めてみました。
すると境内の古い祠の中から、両手が肩のあたりからもげ落ち、埃にまみれて薄黒く汚れた、
紛れもなく辨財天の木像が片隅にころがっていました。
更に本堂の床下からも、護摩の灰でつくった小さな辨財天の像があらわれました。
この像は空海の作であり、木像は行基の作でした。
ただちに祠は清掃し、木像は修理に出し、護摩灰像も手入れして鄭重にお祭りしました。
すると清子の病気は全快しました。
この頃から清子は辨財天像と一体化したかのように、霊能力を併せて持つようになっていきました。
幼少の頃からも他の子供たちとは違う不思議な力を持った清子でしたが、
辨財天像を見つけてお祭りした頃からより一層その靈能力が開花したようでした。
まず近所の長屋に住む檀家の主人と長男の病気を、的確な指示で全快させました。
次は吉野郡白銀村の婦人の業病をぬぐい去りました。
多くの病気の原因は、先祖代々からの深い因縁よるものだと清子は言います。
辨天宗宗祖伝『生命の水』によれば、
「こうしてこの年、昭和九年を境に、清子の平凡な妻、母としての生活は、自分の意志をこえた大いなる意志の力によって押し流され、一宗の宗祖、うつし身の神としての生涯へ転換したのである。」と記されています。
そして信者は五條市野原から徐々に広がって行きました。
たちまち周辺の市町村にも、その評判は伝わります。
増え続ける信者は、宗祖大森智辯の神示を求めて殺到しました。
列車が国鉄和歌山線五条駅に到着すると、信者は一刻も早く宗祖に面談してもらいたくて、
野原町の十輪寺に向かって一斉に駆け出すのでした。
その事から「走り辨天」と人々が言い始めたのです。

●写真は【上】十輪寺山門の寺銘板
    【中】辨天宗総本山如意寺(大和本部)
    【下】大和本部節分祭での風景(『生命の水』宗祖伝記より転写)
       中央に宗祖ご夫妻。向かって左から女優の浪花千栄子、清川虹子、右に島倉千代子の各氏
 
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