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謹賀新年

 投稿者:やさか  投稿日:2017年 1月 3日(火)14時03分12秒
返信・引用
  毎年正月三箇日には、
地元の鎮守さん、故郷の産土さん、大阪の住吉っさんに初詣にお参りしています。
でも今年は都合で、地元の鎮守さんだけにしました。
その住吉神社のおみくじです。

「御神籤 第九番/小吉」
苦しかる日の過ぎゆきて 大神の恵みの光 今ぞ仰がむ

裏面の「神の教」には、
影が鏡か、かがみがかげか、拝む心が、神ごころ
……と記されていました。
 

ごあいさつ

 投稿者:やさか  投稿日:2016年12月 8日(木)00時07分22秒
返信・引用
  HP“吉野へようこそ”を開設して丸16年が過ぎました。
「やさか掲示板」も本日12月8日で15周年を迎えました。
当時のことを思い浮かべて第一回目の書き込みを再掲出させていただきます。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[1] どうぞよろしくお願いします  投稿者:マルヤ 投稿日:2001/12/08(Sat) 22:54
----------------------------------------------------------------------
管理人のマルヤです。
昨年11月に「吉野へようこそ」HPを開設して以来、丸一年が過ぎました。
この辺で掲示板を出したいと思います。よろしくお願いします。
さてこの「やさか掲示板」はWeb上のヴァーチャル・キングダム”ヤマト”に立てられた掲示板です。
入出国は自由ですので、ワイワイ、がやがや、やってもらえればうれしいです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

●ネットの世界は何も知らず、手探り状態ではじめたホームページでしたが、お蔭様でもう16年も続けさせていただけました。
これは偏にHPや掲示板に訪れてくださった方々のご意見や、寄せていただいた有り難いアドバイスのお蔭です。改めてお礼申し上げたいと思います。
ありがとうございました。
これからもできるだけ長く続けて行きたいと考えています。
どうかよろしくお願いいたします。
――――初めは管理人名をマルヤとしていましたが、現在は「やさか」と改めています――――
 

皇女和宮

 投稿者:やさか  投稿日:2016年12月 5日(月)15時23分42秒
返信・引用
  国民学校国語教科書『初等科國語八』に、次の内容を見つけました。(以下教科書まま。※印は筆者)
十四 靜寛院宮※
鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の一戰に、德川慶喜(よしのぶ)は、はしなくも朝敵といふ汚名をかうむつた。
 すでに大政を奉還したかれに、逆心などあるべきではないが、しかし何事も時勢であつた。朝臣のうちには、あくまで德川を討たなければ、武家政治を土臺からくつがへして、新日本を打ち立てることができないとする硬論がある。
(中略)
 慶喜は、事のすこぶる重大なのを知つて、大阪から海路江戸へ歸つた。
 かれは、靜寛院宮に事の次第を申しあげて、切に天朝へおわびのお取り成しを願ひ、身は寛永寺の一院に閉ぢこもつて、ひたすらに謹愼の意を表した。
(中略)
 宮の御文(嘆願書)は、實に言々血涙の御文章であつた。
「何とぞ私への御憐愍(ごれんびん)と思し召され、汚名をすすぎ、家名相立ち
 候やう、私身命に代へ願ひあげまゐらせ候。是非是非官軍さし向けられ、
 御取りつぶしに相成り候はば、私事も、當家滅亡を見つつ長らへ居り候も
 殘念に候まま、きつと覺悟致し候所存に候。私一命は惜しみ申さず候へど
 も、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致
 し居り候。心中御憐察あらせられ、願ひの通り、家名のところ御憐愍あら
 せられ候はば、私は申すまでもなく、一門家僕(かぼく)の者ども、深く朝
 恩を仰ぎ候事と存じまゐらせ候。」
 德川を討たねば止まぬの硬論を持する朝臣たちも、この御文を拜見してひとしく泣いた。
 德川に對する朝議は、この時から一變した。それは全く義を立て、理を盡くし、情を述べて殘るところあらせられぬ宮の御文の力であつた。
(後略)
 朝敵の汚名はすすがれ、德川の家名は斷絶を免れた。舊臣たちは、ほつと安堵(あんど)の胸をなでおろした。
 江戸城は、官軍方の西郷隆盛(さいがうたかもり)、德川方の勝安芳(かつやすよし)のわづか二回の會見で、しかも談笑のちに開城の約が成立した。
 江戸市民は、兵火を免れた。さうして、幸ひはただそれだけではなかつた。當時、歐米(おうべい)の強國は、ひそかにわが國をうかがつてゐたのである。現にフランスは德川方を應援し、イギリスは、薩長(さつちやう)を通じて官軍に好意を見せようとしてゐた。もし、日本が官軍と朝敵とに分れて、長く戰ふやうにでもなつたら、そのすきに乘じて、かれらは何をしたかもわからない。思へば、まことに危いことであつた。

※靜寛院宮(せいかんいんのみや):孝明天皇の御妹で将軍家茂に降嫁した皇女和宮(かずのみや)内親王のこと
 

幕末の有栖川宮家

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月30日(水)00時15分4秒
返信・引用
  天保四年(1833)、波宝神社が正式に有栖川宮家の祈願所なって以来、その関係は7代韶仁親王に始まり、
8代幟仁親王、9代熾仁親王と、明治2年の行政官布告による祈願所廃止まで続けられました。
その間に日本は幕末の重大な変革期を迎えていたのです。

鎖国と攘夷の実行論者だった孝明天皇は、幕府との関係が険悪になってきたこともあって、
その修復の意味を含む公武合体の案を受け入れて、妹の和宮を徳川家に降嫁させることに同意せざるを得なかったようです。
でも皇女和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約相手がいました。
それでも孝明天皇は苦渋の決断をして、国民のため、国内平和のため、皇女和宮を将軍家茂の正室として降嫁させたのでした。
ところが……

1866年6月、将軍家茂20歳で急逝。
1866年12月、孝明天皇35歳で急逝。
1867年7月、睦仁親王(孝明天皇皇子/本来の明治天皇)急逝。
1867年10月、大政奉還……と、日本は時代の大きな荒波に飲み込まれて行きます。

こうした事件の黒幕には、伊藤博文、岩倉具視の暗躍があったと思われます。
また、西欧列強の狡猾な植民地化政策の背景が大きな影を落としていたのでしょう。
 

波宝神社と有栖川宮家

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月29日(火)15時49分21秒
返信・引用
  銀峯山・波宝神社は有栖川宮家の祈願所になっていました。
それは7代韶仁親王が文政13年(1830)3月29日の初参詣から始まっています。
(以下は西吉野の郷土史家、故辻本武彦氏の覚書より)
-------------------------------------------------------------------

波宝神社に宮様が初めて御参拝なされたのは、文政十三年(1830)のことで、
下市町善城の瀧上寺「瀧上誌」に、文政十三年の項に「三月廿九日京都有栖川宮様白銀宮へ御参詣相成る」の記録がある。
この時の宮様は第七代韶仁親王で四十六歳、御子さまの幟仁親王は十八歳であり、御一家で参拝された。
このときの御一行の人数や御寄付のことは分からないが、その後この年の冬、中宮寺宮(妹君の尊照栄暉尼王)から神輿が寄附された。
天保四年(1833)になって、波宝神社は正式に有栖川宮家の祈願所となり、幕・翠簾・提灯の寄附をうけている。
ほかにも宮様方からの胎内仏等の寄附を受けた記録がある。
また嘉永七年(1854)には有栖川幟仁親王より本堂(今は貴賓殿とよんでいる)の寄附があった。
天保四年(1833)巳年八月の波宝神社神宮寺僧、義仙(※)の記録では、
次の御方々の、御繁栄御長久御祈祷の御名がある。
有栖川宮御方 (有栖川韶仁親王)
實枝宮御方  (同妃、後の妙勝定院)
上総宮御方  (どなたかは不明)
西丸御簾中御方
水戸御簾中御方
御連枝宮々御方
【以上は西吉野村郷土史研究家 辻本武彦氏資料の一部より】

不思議なのは、何故このような山奥の山頂の神社を、筆頭皇族の有栖川宮家が「祈願所」にされたかです。
当時、有栖川宮韶仁親王は神祇事務総督、神道総裁でもありました。
神社を統べる地位にある御方が、全国にあまたある神社の中から、何故「波宝神社」を祈願所に定めたのでしょう。
このことは波宝神社神宮寺僧、義仙が知っていたと思えます。
義仙は京都にも名を知られた人物だったようですが、出自・素性はよく分かっていません。
有栖川宮家の文書には残されていた(有栖川宮家廃絶後は高松宮家に残されている?)
とも思えるのですが、今は知るよしもありません。
ちなみに韶仁親王の御孫の熾仁親王は、戊辰戦争征討大総督、陸軍大臣で婚約者は有名な悲劇の皇女・和宮さまでした。
また天保九(戊)年(1838)正月付けの、波宝神社神社神宮寺義仙(※)と署名のある文書には、
(以下再び辻本氏の覚書より)
有栖川宮御方
實枝宮御方
上総宮御方
精宮御方
歓宮御方
豫宮御方
染宮御方
諸宮御方
の御名があり、この時もにも参詣があったようである。また他に「御撫物」の記録もある。
「御撫物」とは宮家より御預し護持する品で、絹糸一かせを白紙に包み、水引を掛け白木の三宝にのせ、
それを御紋のついた四重の箱に入れ移送のための高札や道具がついている。
御撫物は一年間祈願して正月に宮家へ届け、新しい御物を預かって帰るという繰り返しである。
慶應四年(1868)神仏分離令が総督府から発せられ、その後(有栖川総記によると)明治二年(1869)二月、
行政官布告により菊章の器物をその祈願所に寄附することを差止め、
かつ新たに祈願所を設けることを禁ぜしより、当宮の祈願所、祈祷所も廃絶せりと記している。
--------------------------------------------------------------------------------------------------

それでは有栖川宮家御一行は、どのような道を通って波宝神社に参詣されていたのでしょう。
[引き続き辻本武彦氏の資料より以下に引用]

●下市から(県道下市十日市線を通り、黄金岳『栃原岳』の中腹、大鳥居前)波比売神社の社頭を通り、
平原の龍王の辻から、熊野神社の前を通り烏尾の坂をのぼり、波宝神社に到着されたのであろう。
この道は古代からの聖なる道であり、波宝神社への正式な参道であった。
有栖川宮は初めての参詣にあたり、この道を選んだのであろう。
瀧上寺の記録に残ることは、下市のしかるべき寺で休憩なり宿泊されたためと考えられる。
またこの方面の僧は神社までお供したのかもしれない……。

(※義仙)
義仙とは祐心義仙のことで、波宝神社神宮寺僧。文政6年(1823)頃、20歳位で入山。嘉永1年(1848)没。
 

銀峯山の空海像

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月28日(月)23時26分33秒
返信・引用
  吉野三山・銀岳に空海像が鎮座しています。
それは式内波宝神社の下方にある小祠に祭られている石作りのお地蔵さんのような像です。
でもよく見ると、これは紛れもなく空海さんの座像だと思われます。
誰かがお地蔵さんだと思い「よだれかけ」を付けたようで、そのままになっているのです。

この小祠の横の崩れた石垣の辺りには、2.3の墓石らしきものが残っていて、そこから真上に古い参道が続いていた様子が窺えます。
墓標と思しき石柱に刻まれた文字の、読める部分を何とか判読すると
「大阿闍梨□□義仙」と読めました。
おそらく「大阿闍梨祐心義仙」と刻まれていた墓石ではないかと思います。
雑草や雑木に埋もれた古い参道は、昔は真上の波宝神社神宮寺に続いていたように見えます。

この祐心義仙という社僧は謎の多い人物で、有栖川宮家を当社に結びつけたのもこの僧ではなかったかと思われます。
口碑では、さる高貴なお方の御子であった伝わっております。
 

紅葉の名所 大威徳寺2

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月21日(月)21時58分33秒
返信・引用
  牛滝山の山岳寺院、大威徳寺は牛滝寺とも呼ばれ、紅葉の名所として今大阪南部では最も人気のある所のようです。

2年前「いよやかの里」に行った時、たまたま立ち寄って、その鮮やかな紅葉に驚いたのが初めでした。
それは、それまで見たこともない目の覚めるような見事な紅・赤・黄色に染め上げられたカエデ・モミジ、イチョウでした。
その秋化粧の鮮やかさに、目も眩むようでした。
その時カメラを持ってなかったのが残念でなりませんでした。

それで昨年、同様の時期を見計らって、カメラ持参で訪れたのですが、見頃が過ぎていたようで期待したほどではありませんでした。もちろん期待したような写真は撮れませんでした。

それで今年こそはと、現地情報をネットで入念に調べて使い慣れたカメラを持って行ったのです。
厳密に言うと今年も少し(4・5日位か?)遅かったようです。
でも行ってよかったと思える美しさでした。
(多宝塔は国の重要文化財だそうです)
 

紅葉の名所 大威徳寺1

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月21日(月)20時50分9秒
返信・引用
  岸和田市大沢町の天台宗の名刹、大威徳寺の紅葉を見に行ってきました。  

吉野山(蔵王堂、桜本坊)

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月14日(月)11時06分8秒
返信・引用
  昨日の日曜日、「八千枚大護摩供修法」が催されている金峰山寺・蔵王堂と、
「天武天皇ご神像特別ご開帳」がなされている桜本坊に参拝してきました。
秋の紅葉の最盛期はもう過ぎていましたが、この日の吉野山は大勢の行楽客でにぎわっていました。
写真は、工事中でもある蔵王堂と桜本坊、そして下千本大駐車場の人気者「にゃん丸」です。
駐車場は、午前11時には既に満車状態でした。
にゃん丸クンは、まだ若いキジ虎の男の子ですが、かなり甘えん坊のようです。
この日も駐車場売店の小父さんに、店番の定位置に連れて来てもらって愛想ふりまいていましたが、お店の小母さんによりますと、夕方になると早く家に帰りたがるそうで、娘さんが迎えに来るとべったり胸に張り付いて離れないないそうです。
このにゃん丸くんに会うのは今年二回目でした。

●この掲示板の今年5月17日付けでも載せています。
 

戸隠神社

 投稿者:やさか  投稿日:2016年11月 6日(日)18時01分11秒
返信・引用
  先週末は吉野へ行こうと思っていたのですが、後から入った予定の戸隠神社の方にしました。

長野県戸隠山の麓に鎮座する奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社は、
平安時代の神仏混淆時代から、明治の初め、神仏分離令までは戸隠山「顕光寺」として修験道の霊場であったそうです。
現主祭神は、天手力雄で、神紋は鎌卍が使用されています。
神域は広大で、特筆すべきは江戸時代に整備されたといわれる杉並木です。
その神の坐す杜は、神気に満ちあふれており感動させられました。
後日編集して「神々の坐す杜」に掲出したいと思います。

●写真は、平成10年長野冬季オリンピック村の跡地で営業中のプチホテルと、競技に使われたスキー場、そして戸隠神社奥社の杉並木参道
 

京都競馬場

 投稿者:やさか  投稿日:2016年10月22日(土)20時40分6秒
返信・引用
  「菊花賞」を明日に控えた今日の土曜日、京阪淀駅前の京都競馬場に行ってきました。
今年の三歳馬にとっては、クラシック楯取りのラストチャンスとなります。
秋競馬のハイライトとも言える伝統の大レースなので、明日日曜は大混雑が予想されます。
それで明日の菊花賞はテレビ観戦にして本日は秋競馬の雰囲気を楽しもうと出掛けました。どうしてもビールが飲みたくなるので、勿論電車利用です。
京都競馬場も阪神競馬場と同様に、想像していたような混雑はありませんでした。

さて明日のGIレース菊花賞ですが、今年は第77回になるそうです。
一応予想をしておきたいと思います。
(え?まさか枠連で7-7のゾロ目!)エッ…、それはないでしょう。
今年の菊は、上位二頭の実力が抜き出ていて、他馬に付け入る隙はないように思います。
もし、一画崩しがあるとすれば、⑬エアスピネルだと思います。
◎本命:ディーマジェスティ
○対抗:サトノダイヤモンド
▲単穴:エアスピネル

それで馬券は、馬連3-6を本線にして、穴買い6-13を少し。
以上二点買いに絞って見て楽しむレースにしましょう。

 

阪神競馬場

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 9月12日(月)23時14分47秒
返信・引用
  土曜日に阪急仁川の阪神競馬場に行きました。
競馬場に行くのは、もう20年ぶり位でした。
久しぶりの競馬場は美しく、設備も整っていて快適でした。
でも昔に比べると、第一に入場者がびっくりするほど少なくなっているように思われました。
今は競馬人口(ファン)が減ってきているのでしょうか?
高配当の複雑な馬券が増えたので、相対的に馬券的中者が減って来て、馬券を買って楽しむ人々が減ってきているのではないかと思われます。
馬券そのものも、今はインターネットで購入できるので、場外馬券売り場や競馬場まで足を運ばなくても開催中の競馬の勝ち馬投票券は、パソコンやケータイで居ながらにして簡単に買えるという現実があるからかも知れません。
私も根っからの競馬ファンなので、競馬会の口座を持ちネット投票しているので、随分前から競馬場には行っていなかったのです。
でも久しぶりに競馬場の雰囲気を味わってみたいと思い立ち、電車で仁川まで行ってきました。
久しぶりの競馬場の印象は、びっくりするほど清潔で設備も良く快適そのものでしたが、一方で活気に満ちた独特の雰囲気は失われていました。昔の馬券売り場の窓口は殺気立つほどだったからです。もちろん現在でも春秋の競馬シーズン真っ盛りの重賞レースでは、大いに賑わうことととは思います。
でも昔とは何かが違っているように思えました。
昔からの競馬ファンで、馬券を買い始めて50年にもなりますが、昔ほど勝負に夢中になれません。何か面白くなくなっているのです。
来場客は昔の人々より一見上品に見えますが、席確保の新聞や投票用紙がシートの大部分を塞いで、マナーは昔より悪くなっている部分もあります。
それで座席は十分にあっても座れないことが多いのです。
一方で馬主席や予約席は広々として昔よりはるかに快適そうに見えました。

昔は阪神競馬場も京都競馬場も、場内に厩舎の馬房があったため、ほのかに馬糞の匂いが一面に
漂っていたものでした。
でも全体として競馬場そのものは、美しく快適でした。
特筆すべきは芝生でした。
昔の芝生は枯れたり剥れたりしていましたが、現在の芝生は青々と美しく生え揃って丁寧に手入れされており、正に緑の絨毯を敷き詰めたようでした。

 

天川村洞川温泉

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 9月 5日(月)18時59分48秒
返信・引用
  9月4日の日曜日、吉野の洞川温泉に行ってきました。
温泉街を流れる川は「天ノ川」というそうです。
この辺りでは、いたる所で名物「だらにすけ」の看板を見かけます。
以下の写真は昨日撮影したものです。

洞川温泉に来たのは5年ぶりで、その時は洞川八幡神社に参拝しています。
http://www.yasaka.org/yosino/dorogawa.html
 

尾道にゃんこ

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 8月25日(木)09時06分37秒
返信・引用
  阿智神社に参拝した折、http://www.yasaka.org/kamigami/atijinja.html
尾道に足を延ばしました。
写真はその時に見かけたニャンコです。
(いずれもガラケー写真)
 

コクリコ坂から

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 8月13日(土)01時41分48秒
返信・引用
  さきほどTVで放映されていた宮崎アニメですが、また見てしまいました。

このアニメ映画は昭和30年代後半、横浜の高台に建つ進学高校が舞台のようです。
私には当時の雰囲気が偲ばれて大変懐かしい想いのする作品です。
時代は高度成長期のまっただ中で、港湾の工場群から吐き出す煙、街路の人々の様子など当時をそのまま映し出しています。
バックに流れる「上を向いて歩こう」坂本九の曲。街中を走る「くろがね」の三輪自動車や、かぶとむし「ワーゲン」。
よく見ていると日野自動車の「コンンテッサ」も走っています。
学園理事長の乗用車はTOYOPETクラウンと、はっきり車名まで分かります。
面白いのは、一部の学生に未だ旧制中学のような雰囲気が残っていることです。

このアニメは、見るたびに新たな発見があります。
それはヒロインの名が「海」でその妹の名が「空」だったことです。
ここにも空海の名がありました。
でもこれは多分にコジツケ?ですね。
 

『もう一つの空海伝』出版!

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 8月 2日(火)15時48分18秒
返信・引用
  吉野へようこそ「彌栄工房」で連載掲出していた『もう一つの空海伝』を出版することにしました。
来月 9月10日初版予定です。
よろしければ、書店でお買い求めください。
書店でのお買い求めが不便な方は、AMAZONでも購入できます。
よろしくお願いします。
 

空海さんと転法輪寺

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 7月30日(土)18時34分5秒
返信・引用
  犬飼山転法輪寺駐車場の大看板には、写真でご覧のように以下のような事が記されています。
「弘仁6年(西暦815年) 弘法大師御年42歳の時高野山開創の砌 此の地で狩場明神と御邂逅になり、道案内と道中安全守護の為に明神の使者である白黒2犬を賜りました。そして無事に高野山を御開創になりました。…」

●でも史実としては、
「空海少年の日、好のんで山水を渉覧す、吉野より南行すること一日、更に西に向って去ること両日、平原の幽地あり、名づけて高野と曰ふ」という『性霊集』の記述の通り、実際はもっと若い時代に高野山に足を踏み入れ、この地をよく知っていたようです。
 

空海さんと生蓮寺

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 7月29日(金)08時49分11秒
返信・引用
  前記と同じ五條市は二見地区にあります。
正しくは「寄足山生蓮寺(よらせざんしょうれんじ)」と言い、嵯峨天皇が小野篁(おののたかむら)に命じて、
像高10尺を超えたともいう大きな地蔵菩薩を本尊として安置したのが当寺の開基と言います。
また高野山開創前に、この地に立ち寄った弘法大師は、1尺8寸の小地蔵を刻んでその胎内に奉祭したと伝えられています。

境内には寺名に因む蓮が、植木鉢で栽培されており、いたるところに所狭しと置かれていました。
開花時(6月中旬~7月上旬?)にははさぞ美しい花が咲き誇っていたことでしょう。
 

空海さんと大澤寺

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 7月27日(水)23時44分23秒
返信・引用
  宇智郡は旧五條市と地域がほぼ重なります。
本日、その五條市大澤町581の大澤寺(だいたくじ)に参詣しました。
ここは昔に鬼多山と呼ばれた秘境で、現代でも険しい五條市北部の金剛山南麓に位置します。
寺伝によれば、約1300年前の白鳳時代、役行者小角の開祖と伝わっています。
また「弘仁年間この地に弘法大師が錫を止められ幾多の伽藍及び修養道場の建立など真言密教の一大霊場の容相を整えられました…」と伝えられています。

参道は急峻で細く、普通車がどうにか通れるほどで参詣者には一人も出遭いませんでしたが境内は手入れが行き届いており、
往時を彷彿させる古刹の雰囲気が偲ばれました。

●写真をクリック拡大して「瀬之堂大澤寺由来」をお読みください

 

伏見桃山城

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 6月12日(日)08時01分19秒
返信・引用
  伏見桃山城に行ってきました。
御香宮神社に参拝した昨日、すぐ近くにこのお城があることが分かったので立ち寄って見たのです。
現在の伏見城は、豊臣秀吉が1592年に築城した歴史的建築物とは全く違うもので、写真の通りの大天守閣と小天守閣で構成されています。
これは、昭和39年に開園した「伏見桃山城キャッスルランド」が建築した、鉄筋コンクリート作りの大天守と小天守が、京都市にそのまま寄贈されて今に残っているものです。
模造建築とはいえ、とても立派なお城で見た目にも大変魅力的な外観に仕上がっています。
1964年の開園当時は近鉄グループの経営する遊園地で、2003年に閉園するまでジェットコースターやゴーカートに遊戯施設やプールなどがあって、大いに賑わったようです。
残念ながら現在は、耐震基準が満たされていないとかで、内部は非公開になっています。
このお城に見学に来たのは二度目ですが、また見たくなりそうな不思議な魅力が一杯でした。

●伏見城の大手門が移築されたと伝わる、御香宮神社http://www.yasaka.org/kamigami/gokonomiya.html



 

『空海の風景』に異議あり

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月23日(月)00時02分32秒
返信・引用
  司馬遼太郎の『空海の風景』ですが、高野山真言宗の松長有慶管長は「戦後の空海再評価のきっかけになった」と評価しているようです。
でも一方で異議を唱える向きもあります。
それは、仏教学者の宮坂宥洪照光寺住職の次のような異論です。
手短にまとめて言えば、

司馬は小説の中で、空海を上から目線でその業績を「矮小化」している。「性欲の悩みで大学を出奔した」ように言い、その後の修業期間についても、
「性欲の悩みを克服する機関であった」などと書き、はては、「日本史上類のない大山師にちがいない」とも言っている。
「行間ににじみ出る空海蔑視の態度はぬぐいがたい」「司馬には空海に対する尊崇の念は微塵もない。貶めるのみである」としています。

詳しくはネット上の以下の頁を参照ください。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-234.html


『空海の風景』は私もじっくり読みましたが、空海を尊敬する私としては、読み続けるに堪え難いほどの上から目線の表現が頻出していました。
空海を祖師と仰ぐ宗門筋から批判が噴出しないのが不思議なくらいです。
現代日本の最も上質な小説家の一人とされていた司馬遼太郎氏ですが、この『空海の風景』だけは頂けません。
或いはこの作家は、あの司馬遷をもはるかに凌ぐ作家との自負から、名付けた筆名だったのかとも勘ぐってしまうほどです。
 

空海に会える

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月21日(土)15時23分36秒
返信・引用
  産経新聞平成28年4月5日号によりますと、
今年は四国88ヶ所巡る「お遍路さん」にとっては特別な年だと言います。
というのも今年はうるう年で、88番札所から逆に1番へと廻る「逆打ち」の年になり
ご利益が平年の3倍になるといわれ、更に丙申の年の逆打ちで弘法大師に会えたという言い伝えもあって、
今年はその60年に一度のまたとない好機なのだそうです。
旅行各社はプランを拡充させ、現地でも大幅な利用増を見込んで期待しているとしています。
今年は戦後2度目?の、空海/密教ブームなりそうな予感がします。
ちなみに、戦後一度目の空海/密教ブームは、昭和50年代でした。
このブームのきっかけとなったのは、司馬遼太郎の『空海の風景』が一役買ったようです。
 

吉野山の店番ネコ

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月17日(火)00時05分23秒
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  写真は吉野山・大駐車場、売店の看板ネコです。
いつもベンチで愛嬌をふりまいているので、よく雑誌にも掲載されたりして有名になったようです。
経営者のおばさんは、この「にゃんマル」が載っている雑誌を見せてくれました。
車に轢かれないように、首輪にリードでベンチに繋がれています。可愛い男の子です。
 

吉野と修験道

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月16日(月)23時46分50秒
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  5月15日の吉野山は、文字通り五月晴れの、何とも清々しい好天に恵まれた一日でした。

①枚目は、櫻本坊の徳潤門です。
「大峰山護持院 櫻本坊」と「神仏習合修験道場」の看板が架かっています。

②枚目は、大阪・西九条から来られた方々です。昼2時過ぎに出会ったのですが、もうすでに大峰山登頂を済まされ、その帰り道とか。でも今からでももう一度登拝出来そうなほど、お元気な様子でした。

③枚目は、吉野山参道の尾根道を帰路につく修行中の修験姿の人々。本日15日は吉野山のいたるところで山伏姿の、修行中の方々を見かけました。
 

空海の道

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月13日(金)09時26分57秒
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  空海の道と言いましても様々な意味にとれると思いますが、
ここでは空海さんが高野山へ行き来した道について書いてみます。

●ひとつは、得度もしていない少年の頃
 それは優婆塞姿で山人の案内で尾根伝いに初めて高野山に足を踏み入れた時のことで、
『性霊集』の中に「少年の日、吉野より南に1日、西に2日行きて幽遠の地を見つける。名付けて高野という」とある道のことである。
この頃は高野の地は山人の一部意外には誰にも知られていないような山奥だった。ほとんどが尾根道であったと考えられる。
ちなみに私は自分の著作『もう一つの空海伝』では、以下のように道筋を示している。
吉野桃花里から→白銀岳→富貴里→筒香峠→阪本→今井峠→天狗木峠→桜峠→高野

●次の道は、勅許を得て高野の地を賜った後の頃
 高野山の開創準備のため、たびたび平安京=高野山を行き来したことと思われる。また旧都・平城=高野山=吉野の往還もあったであろう。
この頃には紀ノ川の水運を利用する道も開かれたようである。
はじめは紀ノ川南岸の伊都郡三谷に上陸して高野に向かう道。これは「勅使道」とも言われた参道となった。
また、後には九度山の慈尊院あたりに上陸する道が多く利用されるようになり、こちらの道が表参道になった。
空海伝説として残ったのは、この頃、各地を行脚した時の噂が伝説になったのであろう。
水運を利用する道は、宇智郡須恵あたりから、阿陀の鵜飼部が操る川舟に乗って吉野川(紀ノ川)を下流に下る行路で、これが一番楽な往路であったと思われる。
 

大和五條と空海さん/3

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 9日(月)10時11分52秒
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  写真は犬飼寺境内の弘法大師空海像です。
五條市(旧宇智郡と吉野郡の一部)には空海伝説が多々ありますが、
五條市の中心部、商励会通り東の脇道にある「さくら井戸」もその一つです。

伝説によれば、弘法大師がこの地を通られた時、水を求められたのだそうです。
すると老婆がわざわざ吉野川まで水を汲みに行ってくれたので、大師は錫杖で地面を突いて水を湧かせたと伝わっている。
それが「さくら井戸」と呼ばれて、今も豊かに水が湧き出ている「桜泉」と額の架かったこの井戸なのだと言います。

●以下のページ下段も参照してみてください。
http://www.yasaka.org/kamigami/goryo.html
 

大和五條と空海さん/2

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 8日(日)13時45分47秒
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  写真は、五條市犬飼町の転法輪寺(犬飼寺)と、境内の丹生明神・狩場明神社です。
寺伝では弘法大師がここで狩場明神と出遭い、白黒二頭の犬に導かれて高野山へ至ったと伝えます。
大師堂前の丹生・狩場明神の社殿は、江戸時代前期の様式が再現されているそうです。
境内には犬飼大師塚、犬飼明神塚の両古墳(6世紀)もあります。
 

大和五條と空海さん/1

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 5月 7日(土)10時26分22秒
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  五條市の吉祥寺に行ってきました。
旧五條市は宇智郡と地域がほぼ重なりますが、
現在の五條市丹原町、紫水山・吉祥寺は、高野山真言宗に属し、816年弘法大師空海の創建と伝わります。
本尊は毘沙門天ですが、寺名は脇侍の吉祥天女の名をとって寺名としたようです。
社伝によりますと、弘法大師は高野山の鬼門(丑寅/艮)の方角に怨霊封じの毘沙門天を祭ろうとして高野山を下りると、
小高い山の上に紫雲がたなびいているのを見て、その山に登った。
すると生身の毘沙門天が現れて「ここは高野山の七里丑寅にあたるから我を祀れ」と告げた。
大師は一夜で毘沙門天像を刻むと、生身の毘沙門天は姿を消したという。
それが毘沙門天像を本尊とする、吉祥寺の縁起と伝わります。
なるほどこの寺の所在地は、まともに高野山の鬼門方向にあたり、空海さんの形而上学的な呪術の一端が顕れているような気がします。
やはり、空海さんと宇智郡(うちのこおり)は、深いつながりで結ばれているのですね。
 

狭山池築造1400年 花見

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 4月 6日(水)15時08分26秒
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  4月5日、大阪狭山市の狭山池へ花見に行ってきました。
ご存じ狭山池は、日本最古のため池として知られていますが、1988年の改修工事に伴ってなされた調査によって、
東樋に使用された木材の伐採年が、年輪年代測定の結果616年(推古天皇24年)と判定されています。
それで今年は築造1400年になるそうです。
その記念事業の一環としてラバーダックが登場。また、池の堤の周遊道路沿い芝生には「1400」の数字が花文字として植え込まれていました。

●1枚目の写真は、その花文字花壇と遠方に金剛・葛城が見える狭山池全景。
●2枚目は、ラバーダックと堤の桜花「コシノヒガン」。向こうに「PL塔」が見える。
●3枚目は、散りはじめた満開のコシノヒガン桜
この3枚の写真遠景に狭山博物館とラバーダックが写っている。

狭山池公園のサクラは、大部分がソメイヨシノとコシノヒガンだそうです。
開花はコシノヒガンの方が少し早いといいます。
暖かかったこの日、多くの人々が散歩したり芝生で弁当を広げたり、子供を遊ばせたりして花見を楽しんでいました。
4月4日が満開だったようです。
 

日本奥地紀行について(続2)

 投稿者:やさか  投稿日:2016年 3月23日(水)09時30分7秒
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  イザベラ・バード著『日本奥地紀行』原題:『Unbeaten Tracks in Japan』は、
1,880年10月にロンドンで上下二巻本として出版。1ヶ月で3版を重ね、各紙で絶賛されたようです。
日本での初版は1,973年ですが、明治時代初期の日本を、英国婦人が見たままに紀行文として著されており、
当時の北日本の様子が詳しく報告観察されているので、とても興味深いものがあります。
『日本奥地紀行』 高梨健吉訳、平凡社〈東洋文庫240〉1973年1月初版

ほかに以下の4巻本がありますが、内容は部分的に上記のものと重複しています。
●『完訳 日本奥地紀行 1 新潟―山形―秋田―青森』 金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 2 新潟―山形―秋田―青森』 金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 3 北海道・アイヌの世界』    金坂清則訳注、平凡社
●『完訳 日本奥地紀行 4 東京―関西―伊勢 日本の国政』 金坂清則訳注、平凡社
 

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