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平成の時代/どうして?2

 投稿者:やさか  投稿日:2013年11月10日(日)18時13分8秒
返信・引用
  生活保護受給者の増加に歯止めがかからないといいます。
生活保護費は75%を国、25%を地方自治体が負担しており、この生活保護制度を見直さなければ、
国も地方自治体も、厳しい財政事情がますます圧迫されていくのは必定です。

生活保護制度は、
「生活に困窮する方に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを目的としています」とあります。
本当に生活保護がどうしても必要な人には、大事な制度ではありますが、
新聞などの記事によりますと、不正受給者も随分いるようです。

生活保護費はその自治体や受給者の条件にもよりますが、大体月額13万円位と聞きます。
40年近くも勤め上げて退職し、受け取る年金よりも、生活保護者が受け取る額の方が多いというのも如何なものでしょうか?
(もちろん、就業していた時の条件にもよりますが…)
しかも、それが不正な生活保護受給者だったとしたら…これはもう論外です。

これでは、懸命に働いて自分の生活を支えている人達がバカをみることになります。
今新聞配達をして生活の糧を得ようとしますと、
雨の日も風の日も、毎日早朝から休まず新聞を配達して、朝刊二百件で月7万円位。
夕方より夕刊を同様に100件配達して月4万円位で、朝夕刊併せても月11万位にしかならないようです。
対して生活保護を受ければ十数万円の収入になる、これでは制度そのものが不公平という他ありません。

長年勤めてやっと手にする年金よりも多く、また朝夕休みなしに新聞配達した賃金よりも多い生活保護。
これでは、若い人達も勤労意欲がそがれると共に、厚生年金などの加入者は減り続けることでしょう。
一方で生活保護受給者は増え続けます。
これでは一般の善良な人々は救われません。早急に生活保護制度の見直しを希望するものです
 

平成の時代/どうして?1

 投稿者:やさか  投稿日:2013年11月 6日(水)22時29分31秒
返信・引用
  平成の年号は、『史記』の「内平外成」と、『書経』の「地平天成」の文言から採られたというのですが、
「内平らかに外成る」といい、「地平らかに、天成る」というこの年号に込められた願い通りには、
どうも世の中は、中々平穏無事に推移してはいないようです。
平成の時代に入って25年も経ようかという今日ですが、
何故? どうして? 何か変なのでは? と感じることが多いと思いませんか。

今朝7時30分頃、NHKテレビで高齢者の犯罪増加についての番組がありました。
その番組で、最近高齢者の犯罪が増加している報道しています。
中でも女性高齢者の窃盗が急増しているとか。
捕らえられても捕らえられても、何度も再犯を重ねるのだと言います。
それも単価500円くらいの少額商品を何点も盗むのだとか。
(番組では高齢女性受刑者の刑務所での様子が映されます)

そこで、この犯罪の解説として法政大学の、女性の准教授が出演して、
「……窃盗をなさる方がいらっしゃいます。……」などと解説しているのです。
このような敬語の使い方、何か変なのでは? と思いませんか。
この番組に限らず、変な敬語が多いですね。
年端もいかない若年のスポーツ選手に、へつらうような敬語を連発して、本当に日本語が乱れています。

また、民放のバレエティー番組には、番組担当プロデューサーの見識を疑うようなものもあります。
特に、ひな壇式に並んで有名人が出演する、視聴率だけが目当ての番組は低俗なものが多いように見受けます。
メディアは社会の公器ですから、良識ある番組編成を願いたいものです。
番組提供のスポンサーも、視聴率だけでなく品質でその番組の採否を決めて欲しいと思います。
 

前記、下市町補足

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 9月15日(日)17時46分54秒
返信・引用
  前記の「吉野郡下市町」の記事は、正確ではありません。補足しておきます。

>3枚目の写真は、歌舞伎・義経千本桜の舞台にもなった「つるべすし弥助」です。
正しくは、
3枚目の写真は、歌舞伎・義経千本桜の三段目、すし屋のモデルになった「つるべすし弥助」です。

[つるべすし弥助]休日不定/その都度確認要
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/contents/contents.php?contents=0000001185&detail_category_id=all

また秋野川についても補足します。

秋野川は黒滝村より流れ出し、北流して下市の千石橋南詰めで吉野川に流入しています。
よろしければ下記ページも参照ください。
[稲穂も豊かに色づいた秋津野]
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/akinokumano.html
 

吉野郡下市町

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 9月15日(日)10時16分24秒
返信・引用
  下市は、古く桃花里(つきのさと)と呼ばれた市場町で、秋野川の左右両岸に上流に向かって細長く発達しました。
1枚目の写真は、蛭子神社の裏側を流れる秋野川で大きなコイが泳いでいました。
2枚目の写真は、土地が狭く秋野川に張り出した、この辺りに特徴の崖屋造の町屋。
3枚目の写真は、歌舞伎・義経千本桜の舞台にもなった「つるべすし弥助」です。
創業800年にもなるそうですが、残念ながら現在の建物は創業時の建物ではありません。
いわゆる天誅組の乱における、彼等の手による大火災で焼失したため、その後に再建したものだそうです。
 

アニメ 「紅の豚」

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 9月 7日(土)10時06分15秒
返信・引用
  昨夜テレビで「紅の豚」を見ました。
私はジブリ作品の中ではこの作品が一番好きでDVDを借りたり、テレビで放映される度に見たりで、
昨夜でこの映画は4回も観たことになります。(何度見てもいいな)という感想でした。
たいてい宮崎アニメは、公開されるのを待ちかねるように劇場に見に行きます。
中でも「もののけ姫」や「コクリコ坂から」は、公開中に劇場へ2回足を運びました。

好きになった作品、気になる作品は又観たくなり、何度も観ることになります。
背景や台詞、音楽など一度ではとても堪能できないからです。
でも期待して初公開を劇場に観に行っても、中にはがっかりする作品もあります。

●自分の好みによるランキングは以下の通りです。
1位:紅の豚
2位:もののけ姫
3位:耳をすませば
4位:となりのトトロ
5位:コクリコ坂から
他にも「ナウシカ」「狸合戦」「宅急便」など好きな作品は多くあります。
一方、一番がっかりしたのが「千と千尋」で、期待はずれが「風立ちぬ」でした。
でも、映画は個人の好みですね。
ネットでランキングを調べてみますと、サイトによってバラツキがありました。

●宮崎駿/ジブリ作品☆人気投票(2013.9.7現在)
http://www.finito-jp.net/vote1-1/comvote.cgi?id=sasurai

①天空の城ラピュタ
②千と千尋の神隠し
③もののけ姫
④耳をすませば
⑤ハウルの動く城
⑥風の谷のナウシカ
⑦となりのトトロ
⑧魔女の宅急便
⑨紅の豚
⑩猫の恩返し

●また別のサイトでは次のようなランキングが出ていました

1.天空の城ラピュタ
2.となりのトトロ
3.千と千尋の神隠し
4.風の谷のナウシカ
5.もののけ姫
6.魔女の宅急便
7.ハウルの動く城
8.ルパン三世 カリオストロの城
9.紅の豚
10.風立ちぬ
 

Re: 吉野宮の謎4.

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 9月 5日(木)10時52分7秒
返信・引用
  > No.201[元記事へ]

> 下市がポイントになると言う観点ですね。
> ありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございます。
ご存知のとおり下市は、日本最初の商業手形といわれる「下市札」が発行された土地柄ですが、
桃花里(つきのさと)と呼ばれた往古より、吉野地方で最も栄えた市邑だったようです。

また吉野宮関連のことなど、お気付きの点をご教示頂ければ嬉しいです。


 

Re: 吉野宮の謎4.

 投稿者:神奈備  投稿日:2013年 9月 5日(木)09時01分6秒
返信・引用
  > No.200[元記事へ]

> 私は、古代飛鳥(明日香)から吉野へ向かう道筋は、車坂峠越えのルートの他はあまり考えられません。

現代の感覚は近鉄電車に影響されているのかも知れません。
下市がポイントになると言う観点ですね。
ありがとうございました。
 

Re: 吉野宮の謎4.

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 9月 4日(水)19時35分19秒
返信・引用
  > 素朴な疑問ですが、吉野神宮付近や金峰山寺付近に比定されていないのはどのような理由なのでしょうか。吉野本郷ではない?

神奈備さん、貴重なご意見ありがとうございます。
ご指摘頂いたように、吉野神宮や金峰山寺の辺りを「吉野宮」跡地の候補に入れても良かったと思います。
ではなぜ入れてなかったのかということになりますが…、
>吉野本郷ではない?
いいえ、吉野山周辺は、もちろん古代にも吉野と呼ばれた地域内だったと思います。
それでも入れていなかったのは、そこまで考えが廻っていなかったからです。

私は、古代飛鳥(明日香)から吉野へ向かう道筋は、車坂峠越えのルートの他はあまり考えられません。
それで吉野川北岸に至り来た時(または今来丘辺りから眺めた時)、対岸に見える一番手前の山が、現在の下市町新住の宮山あたり、
次に見えるのは同じく下市町栃原の黄金岳・白銀岳ではなかったかと思ったのでした。
その時代でも山頂にはすでに神社の原形のような神祠があって、いずれも見晴らしが良く、堅固な城砦のような立地は作戦本部としても機能したのではないかと。
確たる自信はありませんが、「吉野宮」も「吉野離宮」も、おそらく現在の宮滝の地ではなかったはずだと私は思っています。

(私論の弱点を指摘されてドキリとしました。吉野宮が何処にあったかについては、確実な考古学的証拠が示されるまで、こらから先も課題として探求して行きたいと考えています。)
 

Re: 吉野宮の謎4.

 投稿者:神奈備  投稿日:2013年 9月 4日(水)11時17分1秒
返信・引用
  > No.193[元記事へ]

> ●吉野宮の比定地
> 吉野宮は吉野川の南岸(左岸)で、いざとなれば堅固な城塞となる山頂の神社ではなかったかと思う。

興味深く拝読させて頂きました。

素朴な疑問ですが、吉野神宮付近や金峰山寺付近に比定されていないのはどのような理由なのでしょうか。吉野本郷ではない?
 

興福寺

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月30日(金)22時15分2秒
返信・引用
  写真は「興福寺」です…といっても藤原氏の氏寺として有名な奈良の興福寺ではなく、
奈良県橿原市下八釣町に所在するお寺です。
通称、八釣山地蔵尊(やつりやまのじぞうさん)とよばれ、現在は浄土宗に属する寺だそうです。
伝わる由緒では、585年に仏法を嫌う物部守屋が飛鳥の橘寺を焼いたとき、
金堂に安置されていた地蔵菩薩が火を逃れ香具山の頂上に逃れて行き、
それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建てて地蔵尊を祀ったのがその創始といわれています。

この寺のすぐ前には、健土安比売命(タケハニヤスヒメノミコト)を祀る畝尾坐健土安神社、
そのすぐ南側に啼澤女命(ナキサワメノミコト)を祀る畝尾都多本神社 があります。
西には広大な藤原宮跡が広がり、南側は天香久山です。
 

淡路島の新名所

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月18日(日)22時38分51秒
返信・引用
  「新名所」と言いましても、開場から10年以上になると思います。
とにかく美しいところでした。

●写真(上):淡路夢舞台
●写真(下):あわじ花さじき
 

アクセス出来ない!!

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月17日(土)18時20分44秒
返信・引用
  注意: JimdoFreeのページは外部ホストのドメインから開くことはできません!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
…と、上記のような警告が出て、見たいサイトに繋がらない場合があります。
当方のドメインからですと、上記「JimdoFree」さんのサイト・ページには、
ドメインを経由してはアクセスできません。
その場合、本来の正しいアドレス、当方の場合はhttp://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/
から入れば普通に繋がります。
私は先程この事実を今日初めて知りました。ご注意ください。
アップグレードする等、対策はあるようです。
もちろん、ドメイン・アドレスから入るのでなければ何の問題も無いと思います
でも、これは当方だけのシステム問題かも知れません。
 

岡峯古墳

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月14日(水)13時10分7秒
返信・引用
  吉野郡下市町阿知賀の岡峯古墳へ行ってきました。
この古墳は、日本最古の唐草文様が象嵌された太刀が出土したことで有名です。

吉野川南岸に沿う県道39号線を、千石橋南詰めから東に行き、料理旅館・千石荘を左に見て郵便局が過ぎると、
そのすぐ先に岡峯古墳の案内板があって、右手に入る道を登っていくと、小山の頂き付近に小さなこの「岡峯古墳」があります。
このすぐ近くには、同じ県道沿いに国栖神神社、白髭神社とあり、また近くの阿知賀小学校南側には、
この地区の総氏神、阿知賀・八幡神社もあります。

●石室入口の説明看板には以下のように記されていました
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
        岡峯古墳 (奈良県指定)

古墳は標高160mの河成段丘の北側に位置する径約15m、高さ4.5mの円墳である。
石室はほぼ西に向かって開口する横穴式で、天井を緑泥片岩の巨石で覆った羨道、前道、玄室からなり、
玄室は長さ約3.05m、幅2m、高さ約2.2mあり、古墳時代後期に築造されたもので、
特に玄室に石棚を有している点は紀の川下流の岩橋千塚と同じ形式で、
古墳の多い県下においても三里古墳と槇ケ峯古墳の3基しかない極めて珍しいものである。
古墳内から環頭・素環頭柄黒漆太刀・金環・ガラス玉・須恵器などが出土した。
中でも素環頭柄黒漆太刀の環頭部に象嵌された唐草文は、法隆寺の平瓦に刻まれたものより半世紀さかのぼるもので、
日本最古の唐草文として重要な意味を持つものである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●下の写真3枚目は、この墳丘から北方の眺望です。
正面に見えるのは近鉄吉野線・越部駅の辺りです。
 

吉野宮の謎5.[終り]

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月11日(日)22時01分11秒
返信・引用
  ●宮滝は吉野宮(離宮)跡ではない?。

臆面もなく自説を開陳してしまい、「自説というより稚拙あるいは稚説?」と世間から嘲笑を買うかも知れません。でも筆者は、
「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」
「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」
というような吉野歴史資料館のHPの記事にはどうしても納得がいかないのです。
橿考研の見解をふまえての記事だとは思うのですが、
宮滝=吉野宮跡と、どうして言えるのでしょう。大いに疑問があります。
宮滝のように古代の遺跡が重層した、古代人の居住址に宮柱は建てないはずだからです。
それに、宮滝の地は古代に吉野と呼ばれた地域ではないと思います。
この掲示板をご覧になった多くの方は、当方の意見に同意できないかも知れません。
もし宜しければ、ご意見をお聞かせいただき、ご教示いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
●以下の写真は筆者が考える、吉野川南岸の吉野離宮候補地2箇所です。(いずれも吉野川北岸から撮影)
[上の写真]下市町新住/宮前寺周辺(新住八幡神社の北側)
[下の写真]下市町阿知賀/岡峰古墳近辺(阿知賀八幡神社北側)
現在は広大な竹藪になっている辺りが吉野離宮跡の第2候補地です。
 

吉野宮の謎4.

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月 7日(水)02時16分35秒
返信・引用
  ●では、宮滝でなければ何処か?

以下は、いずれも筆者の独断と偏見による推定である。
吉野宮と吉野離宮は、その性格も所在した場所も同じではなかったという筆者の立場から、それぞれの比定地を挙げてみる。
いずれも吉野川の南側で、古代の「吉野監」以前に吉野国と呼ばれていた地域にあった。

●吉野宮の比定地
吉野宮は吉野川の南岸(左岸)で、いざとなれば堅固な城塞となる山頂の神社ではなかったかと思う。
その候補地として、以下に現在の住所表記で述べる。
①新住八幡神社境内地/吉野郡下市町新住(宮山)…麓の平地の寺は「宮前寺」という
②波比売神社境内地/吉野郡下市町栃原(黄金岳)…見晴らしが良い
③波宝神社境内地/西吉野町夜中(白銀岳)小竹宮…南・西・北の三方が開け見晴らしが良い

●吉野離宮の比定地
吉野離宮は、吉野川南岸の平地に造営され、天皇の別荘的な機能を持っていた。
現在の地名で述べれば、吉野郡下市町の千石橋から越部・六田・上市の吉野川南岸沿いの平地部に造営されていたと思われる。
その候補地は以下。
①吉野郡下市町新住、宮前寺付近
②吉野郡下市町阿知賀 白髭神社付近
いずれもこの辺り一帯は、渡来文化の先進地域である。
 

吉野宮の謎3

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月 6日(火)00時01分9秒
返信・引用
  ●吉野宮/吉野離宮は何処にあったか?


吉野町の宮滝遺跡は、昭和5年から平成12年まで約70年間に、59次にわたって発掘調査が実施された。しかしながら橿原考古学研究所の初代所長だった末永雅雄博士が生前に洩らしたように「宮滝が吉野宮跡だとの確証は得られなかった」ようである。
「それはそうだろう」と筆者は思う。そもそも吉野宮と呼ぶからには、それは吉野に所在しなければならない。宮滝遺跡のあるところは、古代に吉野と謂われた地域とは違うと思うのである。本来吉野と呼ばれた地域は、古代吉野郡の四郷、即ち吉野・賀美・那賀・資母のうちの吉野本郷でなければならない。宮滝遺跡のある地域は、那賀郷と呼ばれたうちの、中荘村に該当し、ここに吉野宮があったとするのは無理がある。
宮滝の地は近年、多くの出版物で吉野宮址のように述べられているが、決して確定している訳ではないはずだ。確かに宮滝遺跡は、古代史を研究する上で重要な遺跡である。しかしながら筆者は、宮滝が吉野宮の跡地だとする見解には疑問が残る。何故か?
それは、以下の疑問点があるからである。

●宮滝へは、飛鳥から芋峠、壺阪峠あるいは芦原峠越えではあまりにも険しく、都人(みやこびと)が乗る車駕が通行できない。緩やかな車坂峠越えで宮滝まで行くと28.9km(現在の道路で計測。橘寺前→下土佐→市尾→奉膳→岡崎→宮滝)もあり遠すぎる。また、吉野川に突き当たれば(現在の岡崎交差点)川向こうがすぐ吉野なので、そこから更に12.3kmも東に遡る必要はない。つまり吉野離宮は、すぐ対岸あたりにあったのではないか。
ちなみに飛鳥の中心地、橘寺前から千石橋北詰まで計測すると16.6kmであった。

●宮滝のような両岸が切り立った景観の吉野川では、万葉集にあるような舟遊びはできない。それに、宮滝のような古い気枯れた集落跡に宮柱は建てないだろう。

●吉野の地は都人から見ての異境で、いにしえより“吉野国”と憧れられた神仙境であった。その桃源郷と俗界は吉野川で隔てられていたので、仙境吉野は国中(くんなか)から来て、吉野川を向こうに渡った南側でなければならない。いわゆる河内と呼ばれた吉野川南岸の、河岸段丘に吉野宮はあったはずである。あらためて言うが、吉野川の北岸にある宮滝は吉野宮跡ではあり得ないと思う。

 

吉野宮の謎2.

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月 5日(月)00時53分56秒
返信・引用
  ●「吉野宮」と「吉野離宮」は別個の施設

宮滝の地は近年、吉野宮(あるいは吉野離宮)の旧跡であるかのように喧伝されているが、はたしてそうだろうか。
確かに宮滝遺跡は、古代史を研究する上で重要な遺跡である。
しかしながら筆者は、宮滝が吉野宮の跡地だとする見解には疑問が残る。
また、壬申の乱前、即位前の大海人皇子が立てこもり挙兵した吉野宮と、
乱後持統天皇が繁く通った吉野宮は、その性格も所在地も違ったはずである。
前者は、いざとなれば堅固な城塞に代わる山頂の神社ではなかったか。
後者は、壬申の乱後、平地に建設された天皇の別荘的な離宮だったと見る。
つまり、「吉野宮」と「吉野離宮」まったく別の目的を持つ施設だったので、
同じ場所にあったとは考えられない。

●写真は丹生川上神社中社境内の「吉野離宮址 顕彰碑」で、次のように記されている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
              吉野離宮址

          離宮の行幸のたびに珍しと
              蛙の声を聞こしめしけむ
                   元宮中顧問官 井上通泰

萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御獵なされた
小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。
そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。
この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため
朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。
   昭和41年10月18日
            東吉野村郷土史蹟顕彰会
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
丹生川上神社中社でも、吉野離宮址はここにあったと主張しているようである。
 

吉野宮の謎1.

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 8月 4日(日)21時23分31秒
返信・引用
  ●本当に宮滝は吉野宮跡か?

吉野町HP「吉野歴史資料館」の[展示のみどころ]の記事に疑問がある。
http://www.town.yoshino.nara.jp/shiryoukan/midokoro/midokoro.htm の記事のなかで、
「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」
「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」
…というような記述がされているが、このような表現は如何なものかと思う。

宮滝が古代の重要な遺跡であることは事実であるし、誰もが疑問を挟まないであろう。
しかし、宮滝を古代の吉野宮跡であったとするには様々な疑問が残る。
発掘跡は埋め戻されていて写真で見るしかなく、また素人の筆者がいうのはおかしいかも知れないが、
大いに疑わしいと思う。筆者にはどうしても吉野宮跡とは考えられない。
あれは、縄文遺跡の上に弥生遺跡が重層した複合遺跡としか思えないのである。
つまり、古代の集落跡にすぎないと考えられるので、宮滝が吉野宮跡地とは、まだ確定できないはずである。

では何故すなおに「吉野歴史資料館」の記事を肯定できないかだが、それは、
そもそも古代の吉野というは、吉野川の南岸(左岸)一帯を指す地名と考えられるからである。
大和国中(くんなか)から来て、立ちはだかる吉野川の流れを南側に越えてこそ仙境吉野国に入れる。
つまり、聖と俗の結界が吉野川という訳だ。
そして、この吉野川は敵の侵入を防ぐ自然の水濠の役割をも果たしているのである。
そのような訳で吉野宮は北岸に造営されるはずがない。
再述するが、聖なる神仙郷「よしの」は吉野川の南岸でなければならないのだ。
宮滝の地は立地条件の上からも吉野宮ではあり得ないと思う。
橿原考古学研究所も公式には、宮滝=吉野宮とは発表できないと思う。
現に末永雅雄博士も生前に「この地が吉野離宮の跡地と断定する資料は得られなかった」と言い、
「今まで宮瀧が吉野離宮とは言うたことはないけど、君は言ったらいい」
というようなことを協力者の前園実知雄氏に語ったらしいことが、氏の論文「宮滝遺跡と吉野宮」に記されている。
これから判断すると、宮滝が吉野宮の跡地であると強く主張し始めたのは前園氏だと推定できるのではないか。

●写真(上):吉野歴史資料館前に展示されている「発掘説明パネル」
●写真(中):「史跡 宮滝遺跡」と刻された顕彰碑
●写真(下):末永雅雄博士の名も刻されている「吉野離宮顕彰碑」
 

吉野の番茶

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月22日(月)23時26分43秒
返信・引用
  昨日の日曜日、吉野山参詣道の商店に番茶を買いに行きました。
いつも金峰山寺のすぐ近くのお店で「吉野銘茶 嘉兵衛番茶」という銘柄を買います。
この番茶を飲むと、子供の頃飲んでいた自家製の茶の味を想い出します。
それで家では番茶はいつもこれなので、切れるとわざわざ吉野まで買い出しに出掛けます。

昨日も吉野行きの主目的は番茶買いですが、まず先に吉野神宮に参詣してから、その次は吉水神社に参拝しました。
吉野山は尾根伝いに参道が上へ上へと続いています。
土産物店が並んでいる辺りのいつもの食堂で、ソバと柿の葉すしの昼食をとりました。
真夏の吉野山は、青々とした木々の緑が息詰まるほどに溢れていますが、観光客はまばらです。
山の陽差しは強く、木々の青葉は太陽光線を跳ね返して、白くキラキラと輝いていました。
 

百日紅

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月14日(日)18時13分35秒
返信・引用
  1枚目の紅色のサルスベリの写真は、昨年と同じ場所、ほぼ同じ角度で撮影したものです。
2枚目の桃色のサルスベリの写真は、紅色と同じ住宅地の少し離れた場所のものです。
同じ町内には、白色のサルスベリもあります。他に紅紫色のサルスベリもあるようです。
中国南部が原産らしいこの花木は、百日も花を咲かせているので「百日紅」と漢語で名付けられたようですが、
文字通り3ヶ月も見事な花を見せてくれます。
観察しますと、一つの花が3ヶ月も咲き続けている訳ではなく、
枝穂の幹に近い部分から、穂先に向かって次から次へと花芽を膨らませて咲き続けます。
この辺りでは7月初め頃から10月頃まで咲いています。
見てまわりますと、花の色によって咲く時期に違いがあるのではなく、
陽当たりによって早い遅いがあるのでもなさそうです。地味(ちみ)にもよるのでしょうか。
あるいは、その個体によってそれぞれ違いがあるのかも知れません。
事実この辺りでも、既に満開の木もあれば全く咲いていないのもあります。

ちなみに、この日本名の「サルスベリ」、幹がツルツルで猿も木登りが出来ないことから
名付けられたというのですが、勿論のこと猿は平気で登ってゆきます。

●撮影機材:FUJIFILM Ⅹ10 レンズ/28~112㎜ 広角35㎜付近で撮影 
 

相撲神社 新社殿

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月13日(土)19時38分9秒
返信・引用
  社殿竣工の写真を撮りそこねたので、今日午前中に再訪問しました。
桜井市穴師を通る国道169号線、「相撲神社口バス停」南側すぐの細い坂道を東に上って行く。
上がりはじめてすぐに大雨が降って来ました。
1,500メートル程上れば「穴師坐兵主神社」の境内にたどり着きます。
そこの境内摂社が相撲神社で、境内入口すぐ右側の所に鎮座しています。
7月7日の竣工記念式典と野見宿禰祈念碑の除幕式が済んで、もう一週間近くになるので、
参詣客は殆どいないのか、すれ違う車はありませんでした。

夕立のようなので、車の中で雨が止むのを待ってから参詣しましたが、その間の参拝者は一組だけでした。
雨上がりの境内は、木々の緑がより一層くっきりと映えて、清々しい空気に満ちていました。
 

ソロモンの箴言

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 9日(火)11時54分23秒
返信・引用
  舊約聖書・箴 言 第三章 3-13~18

智慧を求め得(う)る人および聰明(さとり)をうる人は福(さいはひ)なり

そは智慧を獲(う)るは銀を獲るに愈(まさ)りその利は精金(せいきん)よりも善ければなり

智慧は眞珠よりも尊し 汝の凡ての財貨も之と比ぶるに足らず

其右(そのみぎ)の手には長壽(ながきいのち)あり その左の手には富と尊貴(たふとき)とあり

その途(みち)は樂しき途なり その徑(みち)すぢは悉(ことごと)く平康(やす)し

これは執(と)る者には生命(いのち)の樹なり これ持(もつ)ものは福(さいはひ)なり

日本聖書協会/1975発行『舊新約聖書』より  
 

箴言二題

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 9日(火)07時33分24秒
返信・引用
  「政治的天才」
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対でもあろう。むしろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを言うのである。少なくとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを言うのである。このゆえに政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差はわずかに一歩である」と言った。この言葉は帝王の言葉と言うよりも名優の言葉にふさわしそうである。

「人生」
…前文部分略…人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。われわれは人生とたたかいながら、人生とたたかうことを学ばねばならぬ。こういうゲエムのばかばかしさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るがよい。自殺も確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏みとどまりたいと思うものは創痍をおそれずにたたかわねばならぬ。

『侏儒の言葉』芥川竜之介著/岩波文庫より
 

相撲神社 新社殿竣工

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 6日(土)13時41分4秒
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  垂仁天皇七年七月七日に、天皇が野見宿禰と当麻蹴速に相撲を取らせたとする故事に合せ、
明日7月7日に新社殿の竣工式と記念碑の除幕式を行うと聞いたのです。
それで早速撮影したいと思い、当日の混雑を避けて昨日桜井市穴師の相撲神社に行ってきました。
ところが残念ながら、写真のように本殿は完成してるらしきもののシートで覆われ、
他のモニュメントも、野見宿禰記念碑は仕上げられていませんでした。
境内では当日の雨対策の為か、業者によって大テント張り作業が進められています。
 

Re: 侏   儒

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 4日(木)21時27分48秒
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  > No.182[元記事へ]

引き続いてありがとうございます。
※人気サイト席亭さんからの書き込みは大歓迎です。
神奈備さんの人気にあやかり、当方にも人気が廻ってくるような気がして嬉しいです。

> 天武の時代のことは、概ね正しく伝わっていると思います。この時代、侏儒(小人)は珍しくなかったのかな。

そうですね。でも少数だったのは確かだったのでしょうね。
特に短躯の人は、穴掘り(採鉱や井戸掘り、隧道掘り、暗渠つくり)の作業適性が良いと思います。
あの時代は、部族間の身体的特徴が歴然としていて、一目で人種(部族・出自)が分別できたのかも知れません。

※【神奈備にようこそ】http://kamnavi.jp/
 

Re: 侏   儒

 投稿者:神奈備  投稿日:2013年 7月 4日(木)19時44分48秒
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  > No.181[元記事へ]

> むかし中国では、こびとを俳優にしたらしいので俳優をも「侏儒」というそうですね。
> そういえば西欧でも、道化役にこびとを使うようで映画にもよくでてきますね。

そういえば、昔、てなもんや三度笠で、白木みのる、と言う役者がいました。

日本書記に次のようにあります。

『日本書紀』巻十六武烈天皇八年(丙戌五〇六)三月 大いに侏儒や俳優を集め、みだらな音楽を奏し、奇怪な遊び事をさせた。

『日本書紀』巻二九天武天皇四年(六七五)二月癸未 「管内の人民で歌の上手な男女、侏儒、伎人(俳優)を選んで奉れ。」と言われた。

『日本書紀』巻二九天武天皇十三年(六八四)正月丙午 丙午。天皇は東庭におでましになり、群卿もこれに侍した。そしてよく弓を射る者、および侏儒・左右の舍人たちを召して、射を行わせられた。

天武の時代のことは、概ね正しく伝わっていると思います。この時代、侏儒(小人)は珍しくなかったのかな。
 

侏   儒

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 4日(木)19時33分26秒
返信・引用
  神奈備さん、引き続いての書き込みありがとうございます。

>  大国主と少彦名の国作りとは、渡来人と縄文人との共同作業を語る神話だと思っています。
>  こんなことをテーマにしゃべろうかな。
>

どのような発表をされるのか 大変興味深いです。
後日、もし貴HPまたは掲示板に掲出されるようでしたら、是非拝読させていただきたいと思います。

むかし中国では、こびとを俳優にしたらしいので俳優をも「侏儒」というそうですね。
そういえば西欧でも、道化役にこびとを使うようで映画にもよくでてきますね。
私は「侏儒」という言葉から、芥川龍之介が書いた箴言集『侏儒の言葉』を思い出しました。
いま本箱から探し出してきましたので、収載されている珠玉の文章の一部を、以下に転載しておきます。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
『侏儒の言葉』芥川竜之介著/岩波文庫より―――

わたしはこの綵衣(さいい)をまとい、この筋斗(きんと)の戯を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏儒でございます。どうかわたしの願いをおかなえくださいまし。
どうか一粒の米すらない程、貧乏にしてくださいますな。どうかまた熊掌にさえ飽き足りるほど、富裕にもしてくださいますな。
どうか採桑の農婦すらきらうようにしてくださいますな。どうかまた後宮の麗人さえ愛するようにもしてくださいますな。
どうか菽麦(しゅくばく)すら弁ぜぬほど、愚昧にしてくださいますな。どうかまた雲気さえ察するほど、聡明にもしてくださいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にしてくださいますな。わたしは現に時とすると、よじ難い峰の頂を窮め、越え難い海の波を渡り――言わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そういう夢を見ている時ほど、空恐しいことはございません。わたしは竜とたたかうように、この夢とたたかうのに苦しんでおります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守りくださいまし。
わたしはこの春酒に酔い、この金鏤(きんる)の歌を誦し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。
                               同書「侏儒の祈り」から 以上。
 

Re: 古代部族⑧ 追 記

 投稿者:神奈備  投稿日:2013年 7月 4日(木)15時10分5秒
返信・引用
  > No.179[元記事へ]

 応答して頂きありがとうございます。

 蝦夷と言う字の蝦は古代ではガマ(カエル)を意味します。音はカ。夷はえみし、異人、音はイ。蝦夷はカイ。エビは本来魚偏に蝦の旁ですから、カエルのような異邦人、やはり土蜘蛛を連想させます。

 アイヌ人を呼ぶのに、千島アイヌは「クシ」、樺太アイヌは「クイ」「クエ」でした。越の国の「コシ」もその変化の一つと思われます。これはカイに通じるような気がします。女王国を大和としますと、『魏志倭人伝』に言う侏儒国の可能性があります。

 また、南方では、福岡平野の東部に金隈遺跡があります。御笠川に沿って南北に伸びている月隈(つきぐま)丘陵のほぼ真ん中あたりに位置しています。遺骨は<南九州・離島タイプ>とでも呼ばれるタイプで、低・広顔の傾向が強く、頭を上から見た形が円に近い短頭形で、著しく低い身長です。縄文人のタイプらしいです。

 お書きのように、列島の真ん中に弥生人が渡来してきて、東西の縄文人が徐々に南北に追われていったのでしょう。

 大国主と少彦名の国作りとは、渡来人と縄文人との共同作業を語る神話だと思っています。
 こんなことをテーマにしゃべろうかな。


 

Re: 古代部族⑧ 追 記

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 3日(水)09時24分20秒
返信・引用
  > No.177[元記事へ]

神奈備さん、お早うございます。
貴重なご意見の書き込みをいただき、ありがとうございます。

> 大きい流れでは、同調できますが、個々の大王につきましては、いささか違う所もあります。
 ……
私の歴史観は、一般的な見方からするとズレがあるかも知れません。
確固たる論拠が無く、想像の含む割合が多いと言われそうだからです。

例えば歴代天皇の中でも有名な、雄略天皇や天智・天武・持統天皇らを渡来系と見るのは、
一般的な歴史認識からすれば、首肯できないとする意見の方が遙かに多いと思われます。
また、列島土人については、私は所謂アイヌがそれだろうと思っています。
北方に逃れて行ったのがエミシ、南方に逃れて行ったのがクマソ・ハヤトなどと書きました。
が、実はこれには迷いがあります。エミシ、エゾと雖も更に古い時代にこの列島にたどり着き、
定住していた人々かも知れないとも思うフシもあるからです。
当てられた漢字(蝦夷)から受ける印象も、何やら異邦人の臭いがします。

土蜘蛛と呼ばれた人々については、私はやはり彼らは古代の採鉱民のような気がしています。
古代の吉野三族にいう「有尾人」の井光、石押分之子らで、穴に起居していたのでしょう。
彼らもいつか古い時代に渡り来た人達ではなかったのでしょうか。

それでは生粋の原住民はどうなったのかということになりますが、
それは、次から次へと渡来する侵入者に殆ど殺され、極少数になってしまったのではないでしょうか。
古代日本は部族間で多くの戦があり、ある時代までは原住民系、ある時は高句麗系、またある時は
新羅系、百済系等々と、戦の度に支配者と支配者階級は交替していったと私は考えています。
(古墳で発掘された副葬品などを見ても、大陸や半島の影響を濃厚に感じます)


> 7月21日のウガネットで発表…

とても興味深い内容になるのではないかと期待しています。
発表内容を拝見できれば幸いです。また勉強させてください。
 

Re: 古代部族⑧ 追 記

 投稿者:やさか  投稿日:2013年 7月 3日(水)01時36分21秒
返信・引用
  神奈備さん、こんばんは。
書き込みありがとうございます。

> 古代部族①~⑧ 興味深く拝読させていただきました。

神奈備さんからこのようにコメント戴くと少々恥ずかしい気がいたします。
古代部族について書きはしましたが、根拠も確信できるようなものは無く、あまり自信はありません。
実は今日「穴師坐兵主神社」に参詣してきました。大阪に戻ってからちょっと飲んでましたので、先程帰宅したばかりなのです。
それで戴いたご意見に関しましては、あとから追記いたします。

さて、本日参詣した兵主神社すぐ隣の「相撲神社」のことです。
私は全く知らなかったのですが、相撲神社は朽ちて崩れ落ちてしまったとかで、
立て直す新社殿の基礎工事が完成した所に出逢わせました。
工事関係者が大勢いて聞いてみますと、
「明日(7月3日)重機を持って来て、既に出来上がっている新社殿を建て付けます。それで明日だったら完成仕立ての写真が撮れますよ」と言われるのです。
また、神社か村の役員さんらしき人が数人居られて、
「垂仁天皇七年七月七日の故事に合せ、今月7月7日に社殿竣工の式典を行いますので、その時来てください」とも言われるのです。
そのお話によりますと、催しがあり相撲取りも来て、TVや新聞社も取材の予定とのこと。当日は素麺を無料で七七七杯振る舞うそうです。ご興味ある方は足を運ばれてはいかがでしょうか。
(バスの送迎もあるとのこと。詳細は桜井市役所にお尋ねください)
 

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